極楽の余り風

 「極楽の余り風」って聞いたことある❔

夏の終りの今頃の暑い時期、山道を歩いて汗だくになった体に、ときおり清々しい涼風が木陰を抜けて吹いてきました。ああ~こんな素晴らしい風はないネ・・・」と感激(関西では、昔から「極楽の余り風」と言われているとのことです)

 群馬県太田市の金山城址を仲間と連れ立ってハイキングを楽しんでいた時、途中休憩は市街地が眺められる石垣の上で小汗をぬぐっていました。ここで風を感じましたが何とも言えない涼風でした。これを「極楽の余り風」或いは「極楽のお裾分け」と云うそうです。

「涼しくて心地いい風だね」                           「ホントだね、生き返るようだ」                         「こんな風をなんていうか知ってる?」                      「この風に名前があるの?」                           「あるんだよ!」                                「死んだお婆ちゃんが教えてくれたんだけど、極楽の余り風って云うんだって」    「へ~そんな風に云うんだ!!!?                         

とこんな会話があったように思う。そうすると私の習癖で、『酷暑に吹く清々しい涼風がなぜ余り風なのだろうか?』 と、素朴な疑問が湧いてきた。調べて見ると浄土真宗の祖「親鸞」にたどり着いた。親鸞は、猛火・暴風も、徳風・微風に転じられてゆく、すなわち浄土往生を願えば願う中に極楽からのそよ風が吹くと説く。 




空の日

(くにまるくん)
9月の暦を見ると今週はシルバーウイークと呼ばれているようですが、9月19日は「敬老の日」で翌日の9月20日は「空の日」であります。「空の日」の起源は昭和15年に制定された「航空日」が始まりです。この年の「航空の日」は9月28日に行われましたが、昭和16年の航空関係省庁間協議において9月20日と決定されました。また9月20日から30日迄の期間を「空の旬間」とされ現在に至っています。

第2次大戦終戦に伴う一時休止もありましたが、昭和28年に再開され民間航空再開40周年にあたった平成4年に、国民の親しみやすいネーミングということで、それまでの「航空の日」から「空の日」へ改称されました。この期間には、全国各地の空港等で航空に関する様々な催し物が実施されるようになりました。

平成4年に「空の日」「空の旬間」を設けた際に、「9(く)2(に)0(まる)」=「くにまるくん」が誕生しました。地球が飛んでいるその躍動的な姿は、地球的規模での航空による人、物及び文化の交流を表しています。また「空の日」のキャッチフレーズは「もっと感動、空はフロンティア」航空の楽しさと限りない可能性を表します

ハッピーマンデー制度」により本来9月15日だった敬老の日が9月第3月曜日なりました国民の祝日法に関する法律(祝日法)は1985年12月27日に「その前日及び翌日が『国民の祝日』である日(日曜日にあたる日及び前項に規定する休日にあたる日を除く。)は、休日とする。」と改正されています。今後は「空の日」と並んで「川の日」も祝日に格上げになる可能性もありそうですね。(そんなに休日を増やしてイイんでしょうか?)

 令和4年 長月        八 大




藤袴(フジバカマ)

 左側に川久保の藤袴
昨日は我が家から古利根川の右岸に足を運ぶ。風のテラスを過ぎ人道橋下をくぐり抜けて川久保公園に出ると休憩が出来るベンチがあります。土手の水溜まり下の木札看板を見ると「フジバカマ」との表示がありよく見ると雑草にしか見えない藤袴らしい植物が所在なく生えている。改めて見直すとこれがフジバカマなんだと認識する。

先日の京都新聞にフジバカマと云う植物が絶滅危惧種に指定されており保護の運動が展開されていることが載っていました。何の変哲もない雑草にしか見えない植物でありますが秋の七草の一つに数えられ万葉集にも詠まれていることで保護活動がなされているようです。                   

藤袴の花の色は藤色を帯び花弁の形が袴のようであることから「藤袴」の名が生まれたと云われているそうです。環境省のレッドデータブックでは準絶滅危惧種に数えられています。フジバカマにはいくつか種類があるようですが、はっきりした区別はなされていません。

開花した藤袴
万葉の昔から日本人に親しまれており日本へは、古く中国から渡来し帰化したと考えられていますが、日本在来のものもあると云われております。日当たりのよいやや湿った河原の堤防や草地に自生しているのが大半です花の時期には匂いを嗅ぐと桜餅の葉のような香りがするようで観賞用に庭や鉢などにも植えられています最近では川岸の護岸工事によって自生種が激減しているそうで、近年の地球環境の変化によって数を減らし環境省レッドリストでは準絶滅危惧種に指定されています

花の色が藤色を帯び花弁の形が袴に似ていることから「藤袴」の名が付いたと云われています。「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花」と古くから秋の七草の一つにも数えられております。また源氏物語には「藤袴の巻」があるなど日本人には古くから親しまれてきた草花です。藤袴の花言葉は「あの日を思い出す」「ためらい」「躊躇」などがあります。

  令和4年 長月         八 大











無花果(イチジク)の話

無花果
無花果は落葉低木果樹で、日本には江戸時に入ってきたそうで初めは薬用だったそうです。旬は八月の終りから十月にかけて花を咲かせずに実を付けるように見えるが実際にはイチジクの花は果実の中に咲くという面白い構造をしています。イチジクの果実を切断すればわかりますが、その内側には空洞があって、そこにとても小さな花がいくつも咲いています。 花が無いのではなく外から見えてないだけなんです。ただ普通の花とは違って花びらがありません。イチジクの実を食べるとぶつぶつしている部分を感じられますが、あれがイチジクの花なんですね。                    

イチジクは受粉によって子孫を増やさないで、花が受粉を経ずに実、ひいては種になるという単為結実(たんいけつじつ)なのです。そのため、別に花が外に出ている必要はないのです。何故そのような形になったのか不思議ですね? その答えはイチジクの進化にあるそうです。イチジクはぶどうと共に紀元前から栽培されていた果物でエジプトやトルコが原産地だそうですが、そのころに「イチジクコバチ」と云う名前の小さな蜂がイチジクの底部にある小さな穴から入り内側に産卵をしていました。そうすると、孵った幼虫は養分と外敵から身を守れる空間を確保できます。そうして安全に成長できたわけです。                  

イチジクの断面

成虫になると、イチジクコバチは花粉をまとって出てきます。そして別のイチジクに自身も産卵します。すると一般的な花のつき方をしなくても内側に咲かせたまま受粉できるので、こうした経緯で現在の花のつき方になっているそうです。昔はハチに花粉を媒介させていましたが現在は先述のように単為結実のため、「食べたらハチがいる」なんてことはありませんのでご安心ください。

旧約聖書の登場人物、アダムとイヴにまつわる話があります。 ある日、蛇にそそのかされ、神の言いつけを破ってイチジクを食べてしまいます。禁断の果実を食べたあと、無垢を失い知恵をつけたアダムとイブは、裸を恥じて局部を隠しますが、それにイチジクの葉を使ったというのです。その姿を見て神はエデンから追放したというので、イチジクの葉が楽園追放の引き金ともいえそうですね。 そのイチジクの葉っぱが恥隠しの意味があったと云われています。

イチジクの葉について一言 「恥ずかしいことや嫌なことを、無害なもので隠す」という意味で広く使われています。また、絵画や彫像で、外性器の部分を後から覆い隠すためにイチジクの葉が使われることがあります。これらは聖書の創生期においてアダムとイヴが知恵の樹から禁断の果実を食べた後に、イチジクの葉(fig-leaf)恥ずかしいと思われる物を使って裸体を隠したといわれます。

「無花果(いちじく)」と云う文字は花を咲かせずに実をつけるように見える ことに由来するそうです。古くから馴染みの深い植物で栄養豊富で美容効果もあることから身近に食用にされて来ました。

 令和4年 長月         八 大



















おわら風の盆

艶やかな女踊り
 越中富山の「おわら風の盆」は、おわら節の哀愁を帯びた胡弓の旋律に乗って坂の多い街の道筋を無言の踊り手たちで洗練された踊りが披露されます。毎年のように訪れる台風シーズン(二百十日の厄日)になりますが、静かに通り過ぎて欲しい、収穫前の稲を前にして被害を最小限に通り過ぎて欲しいと願う村人たちの祈りを込めて静かに静かに踊りは進みます。その祭りを越中八尾の村人は「おわら風の盆」と呼んで大切に守り続けてきたそうです。9月1日からの三日間は大勢の見物客が訪れ一年で一番の賑わいを見せます。

街流し
おわら風の盆の起源 は元禄時代に遡ると云われます。起源を記した明瞭な文献もなく、その正確な始まりは分かっていないが、諸説ある中で有力なのは、元禄15年(1702年)「町建御墨付」と呼ばれる加賀藩から下された町建ての文書が、米屋少兵衛から町の人々の手に戻った事を祝って街の老若男女が三味線、笛、胡弓、太鼓などを手に三日三晩踊ったのがその始まりといいます。これを端緒に孟蘭盆会(旧暦七月十五日)で踊り練りまわり、それがいつしか現在のように九月に行われるようになったと云われています。

「町建御墨付文書」とは その昔、米屋少兵衛という人物が加賀藩より「ここに町を作って良いですよ」という許可証「町建御墨付文書」を頂き、八尾に町を作りました。彼は今で言う銀行のような業わいをしており、藩への上納ができない者へ資金を貸し、後日利子をつけて返してもらっていました。しかし景気もだんだん悪くなっていき貸し倒れが増え、ついに八尾を去り水口村というところに移り住みます。その際藩からいただいた「町建御墨付文書」も持って出ました。

数十年経ち、藩は「町建御墨付文書」の返還を要求。しかし少兵衛の子孫はそれに応じませんでした。困った役人は一計を案じ、桜のころ花見だと言ってたくさんの酒や肴、芸人を伴い水口村の米屋を訪ね大宴会を開きます。宴が大盛り上がりをしている間に、こっそりと米屋の蔵から「町建て」の書類を盗み出し、持ち帰りました。無事書類が戻ったことを祝い、役人は三日間昼夜を問わず、にぎやかに歌い踊って町を練り歩いてよろしいというお触れを出しました。それがおわら風の盆の始まりだといわれています

八尾の町は坂の多い処、道筋にたくさんの灯りが燈されるれ三味線や胡弓の音が鳴り響いており、静寂の中に何となく上品な美しさがあり自分を夢のような時空に合せてくれます。この時期に何度か訪ねたましたがその思いをこのまま残して置きたいものだと思います。


「風の盆恋歌」 歌 石川さゆり       作詞 なかにし礼  作曲 三木たかし

 蚊帳の外から花を見る  咲いてはかない酔芙蓉  

          若い日の美しい  私を抱いて欲しかった  しのび逢う恋風の盆

 私あなたの腕の中  跳ねてはじけて鮎になる

          この命欲しいなら  いつでも死んで見せますわ  夜に泣いてる三味の音

 生きて添えない二人なら  旅に出ましょう幻の

          遅すぎた恋だから  命をかけてくつがえす  おわら恋唄道ずれに


小説「風の盆恋歌」のあらすじ             高橋 治 原作を借用

高橋治氏の恋愛小説で、胡弓の哀愁を帯びた響きと優雅な踊りと町の雰囲気が調和した素晴らしいものでした。この小説の主人公は、都築克亮と中出えり子と言う中年の男女です。二人は青春時代に金沢の町で共に過ごし、当時お互いに惹かれながらも、それぞれグループの中の別のパートナーと結婚し、それぞれの人生を歩んで来ました。

この2人が20数年を経て、パリで再開を果たす所からドラマが展開されます。このパリでの再開時に、やはり互いに忘れられない存在である事を強く認識します。この再会からさらに数年を経て、越中八尾の「おわら風の盆」の夜にようやく結ばれます。そして年に3日間だけ、この風の盆に合わせて逢瀬を重ねる事を約束します。

都築はこの3日間の為に八尾に民家を購入し、えり子がやって来るのを待つのです。しかし1年目も2年目もえり子は現れる事はありませんでした。それぞれに家庭や家族があり、それがえり子が簡単に八尾を訪れられない事を感じさせられます。えり子が八尾で待つ都築の所を訪れるには、勇気がいる事だったのでしょう。

そんな中で、えり子はようやく八尾を訪れ、再び都築との逢瀬に身を焦がします。そんな逢瀬での2人の心象風景も繊細に描かれています。しかしそんな逢瀬が可能な年月は長くは続きません。そして次の章では、年に3日だけの大人の恋愛を待ちわびる2人が交わす書簡が綴られます。その中に、それぞれの心象風景が精緻に描かれ、そして何とはなしに破局を予感させるのです。

そしてストーリーは大きく転換し始めます。2人は京都での逢瀬を最後に、しばらく音信普通となり、それぞれの普段の人生を送ります。そしてそんな中で都築は原因不明の病に冒されます。そしてある年の風の盆の日に、えり子の娘が突然訪れ、母は死んだと告げるのです。数日後、えり子を亡くし憔悴する都築に電話がかかって来ます。それは何とえり子からでした。娘は母親の不倫を知り、それにピリオッドを打たせるために嘘をついていたのです。電話口に出た都築は病状が悪化し、息も絶え絶えの状態で、それを感じたえり子は八尾に駆けつけますが・・・・・。

 令和4年 葉月           八 大








盆踊り

 子供の頃、一年中で何が一番楽しいかと問われると盆と正月ほど、嬉しいことはなかったと思っていました。新しい年を迎える心構えを教えられていたように思っていましたね。  お盆の頃私達が育った田舎では小学校の校庭に若い衆達が丸太たん棒を組み立ててくれた櫓を中心に舞台を作り三日間に亘って盆踊りの競演が行われ町中の皆が一体となって夜通し踊っていました。

盆踊り風景

盆踊りの起源は仏教の盂蘭盆会であると云う説が有力です。平安時代、空也上人によって始められて踊り念仏が民間習俗と習合して念仏踊りとして盂蘭盆会の行事と結びついたと云います。精霊を迎えるお盆には死者が家に帰ってくると云う考え方から先祖の供養するための行事として定着して行ったようです。

歴史的なことで考えると村社会では、娯楽と村の結束を強める役目を果たしてと思われます。そのため全国各地にご当地音頭も多く存在しオリジナルな地域的音頭も増えて行ったそうです。お盆の時期に行われますが宗教的な意味合いは薄く農村や庶民の娯楽として楽しまれていました。明治の頃には夜通し騒ぐことが不評を買って衰退した時期もありましたが、大正の中頃から農村娯楽として再び復活されていったそうです。夏休みの期間中には練習の期間も含めて夜通し行われることも多かったため治安の問題もあったそうです。

その昔、高名な民族学者の講演があった時に聞いた話ですが、盆踊りは性の解放のエネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになっていき、明治時代には風紀を乱すとして警察の取り締まりの対象となり一時は激減していたこともありました。けれども盆踊りは未婚の男女の出会いの場に留まらずに既婚者の交際の場?にもなって昭和の初め頃まで続いたと云われています。その後戦争がありまして・・・時代は大きく変わりましたね。


 令和4年 葉月          八 大 





蝉 の話

油蝉
 目の前の 花ザクロの木の下にセミの抜け殻を見つけた。今年の夏はこれが3個目であり油蝉(アブラゼミ)の声はジリジリジリと油で揚げるような鳴き声は暑さを増大させており暑苦しいことこの上ない。鳴く声が油を熱したときに撥ねる音に似ているために付けられたと云われるが他にも翅(はね)が油紙を連想させると云う説もあります。

油蝉の翅は羽化の際は不透明の白色をしているが時間と共に翅が乾いて行くと共に褐色になる。子供の頃、その間2時間余り飛び立つまでをじっと見続けていたことがありましたね。飛び立つときにオシッコを掛けられたこともありました。また油蝉は夜中にも泣くことがあり煩わしく思ったことがありましたね。何でだろうと考えていた時に思い浮かんだことは、七年間も土の中でその日を待ってわずか1~2週間で他界してしまう儚さではないかなと思えた。

つけ麵屋さん
春日部駅東口の旧街道通りにある美容院の隣に「蝉時雨(せみしぐれ)」と云う、つけ麵やさんがあります。15年ぐらい前に開業したと云いますが小生も興味本位で食べに行った事がありました。味は濃厚で旨いと評価できましたが塩分が強いので水で薄めて完食した覚えがあった。最近のグルメ情報誌などの評価を見ると春日部市内ではナンバーワンに輝いているそうです。その後に蝉時雨と云う名前の由来を聞き出そうと食べに行きましたが店主の顔を見ると無口の塊のような雰囲気は諦めざるを得ませんでした。蝉しぐれの言葉からは余計なことは云わないで食べなさい・・!と云われているようで今でも聞き出せてはいません。
蝉の種類は日本では30種ほどあるそうです。この近くでは「ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、クマゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクホウシ、」ぐらいですが沖縄の方には変わった名前が多いそうです。そう云えば「うつせみ」という言葉もありますね。

「蝉」に纏わる気になる言葉

「セミファイナル
地面に落ちて死んでいると思っていた蝉が近ずいた途端に、急に暴れ出して動き出し驚かされた経験があると思いますが? この蝉の最後の大暴れこそが「蝉ファイナル」で別名「セミ爆弾」とも云われるそうです。またセミが人生の最期を迎える直前の状態とスポーツの準決勝、ボクシングではメインイベントの直前の試合を指す「セミファイナル」をかけたブラックジョークでもあります。

蝉の抜け殻
「空蝉(うつせみ)」とは                                うつせみ」と読むこの言葉は、読んで字のごとく「蝉の抜け殻」を表しています。しかし、単に抜け殻を示す名詞としてだけでなく、源氏物語に登場する架空の女性の通称でもあります。蝉の抜け殻の様子から、古来よりむなしいさま、はかないさまの例えとして使われてきました。形はあれども中が空っぽであることからそのように感じ取られてきたのでしょう。その語源は『現(うつ)し人』とされており、つまり、現実世界に生きる人間のことです。仏教の思想では人間の生は、とてもは悲しく空しいものだと捉えられてきました。それなので「うつしおみ」の発音が変化して「うつせみ」という言葉が、抜け殻となって空洞である「空蝉」の文字があてられたと云われます。

   

  閑さや 岩にしみ入る 蝉の声    芭蕉

         蝉しぐれ 一斉に止む 涼しさよ    八大?


 令和4年 葉月          八 大
















無言館

無言館
朝、テレビを見ていると「無言館」をテーマにした話が出ていました。緑豊かな信州塩田平の地に、1997年(平成7年)に開館した美術館で、館主自らが出征経験があり太平洋戦争で没した画学生の遺族を訪問して今でもその蒐集を続けていると云う。その蒐集された作品を展示し慰霊を掲げて美術館として開館したそうです。

しばらく前に訪れたことがあり緑の林の中に見るからに人を寄せ付けないような厳しい感じ受けたのが第一印象でした。こじんまりとした十字架をモチーフにした建物は人を寄せ付けない重い雰囲気を感じてしまうのは何故なんだろう。あの戦争さえなければと・・・こんな思いはなかったんだろうかと述懐してしまう。

無言館命名の由来については、展示された絵画は何も語らず「無言」であるが見る側に多くを語らせるという意味で命名したそうですが、もう一つは見る側の観客もまた展示されている絵画を見て「無言」になるという意味も含んでいると語っております。そういう見方もあるんですね。

前山寺未完の三重塔
離れがたい思いの中、戦国時代川中島の戦いの際武田信玄の本陣ともなって廃城となった塩田城を確認し、未完性の塔(回廊がない)と呼ばれる「前山寺三重塔」を訪ねた。翼を広げ見上げる程の様相は尋ねる人々を迎え入れてくれるような思いがします。それは戦国武将に支えられた信仰と建築のおりなす造形美を今に伝えてくれている。無言館を訪ねた後なので壮大な開放感が印象に残った。


 令和4年 葉月        八 大














火焔型土器

火焔型土器
新潟県の十日町市にある十日町市博物館には笹山遺跡から出土した、縄文時代中期に(約5000年前)に造られたと云われる国宝の「火焔型土器」が展示されております。中学校の教科書にも載っておりますが 燃え盛る炎 をかたどったような形状の土器は縄文土器の中でも特に装飾性豊かでこれだけの美意識を持っていたのかと考えると脱帽しかありません。

縄文時代と云う名前からしてその総てが縄目の模様が出ているのかと思っていましたがこの土器には見られません。上部の4カ所に鶏の頭のような突起が付いておりますが何を表わしているのか分かりませんが全体が燃え上がる炎を思わせることから火焔型土器と呼ばれているそうです。

またその用途としては発見された場所によっては、火で焦げた部分や吹きこぼれの跡があることから煮炊きする鍋に用いられたものと考えられています。火焔型土器は実用性の他にその形状から見て祭祀的な目的に使われたのではないかと云う考え方もあると云われています。

あの有名な芸術家・岡本太郎は昭和26年に偶然、国立博物館で縄文土器を見て「なんだ、コレは!」叫んだそうです。この土器を見て内面から出て来る美に感動した岡本太郎は民俗学的な視点を越えて、大阪万博の「太陽の塔」などの作品に繋がったのではないかと云われております。

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牛蛙の話

子供の蛙
 昨日の朝、植木に水撒きをしていると大きなバッタのような生き物が茗荷の林に入ったのを感じた。飛ばないで歩いているように見えたので用心深くその林を掻き分けて見るとなんとそれは子供の「牛蛙」ではありませんか。体長は3㎝位で水にぬれたような輝きを持った姿で小さいのに動きは鈍くのっそり・のっそりと移動する姿はあの子孫に違いありません。

牛蛙と云われるのは何でかな・・?と思って調べてみました。 体調15㎝前後の大型のカエルで、「ブォー・ブォー」と牛みたいな鳴き声からウシガエルとと名前が付いたと云われます。ヨーロッパでは皮を剥いた後ろ足が美味しいことから古くから食用ガエルとして養殖されていたそ         うですが、原産地は北米ロッキー山脈の東部に分布しているそうです。

福ちゃんらしき蛙
大正から昭和の初めにかけて農家の副業として養殖が奨励され腿肉の缶詰が米国やハワイへ盛んに輸出されてたそうです。太平洋戦争が始まると一旦止まりましたが終戦と共に貿易が再開されると輸出商品として再び脚光を浴びました。昭和25年ごろの最盛期には冷凍マグロに次いで年間3億円もの貴重な外貨を稼ぐ程であったと云います。けれども昭和44年に米国が牛蛙の腿肉の中に農薬(BHC)が残留していることが問題となりその後は輸出が終わってしまいました。

戦後、私達の年代が育ったころでは牛蛙を食用にしていた話がありましたよ。田舎の年寄りたちが田んぼの畦道で頭にカンテラを付け、食用ガエルを火バサミで捕まえて網の袋に入れて帰る姿をよく見かけました。その当時としてはお酒のつまみを兼ねて貴重なたんぱく源であったと聞かされました。              今では浅草の仁丹塔近くに下手物商品を扱う「福ちゃん」と              云う店が営業をしていましたね。

話が大きく横道にそれてしまいましたが、古利根川縁で独特              の「ブォーブォー」と低音の響きが聞こえる事を待ってます。

 令和4年 文月          八 大









福ちゃん登場 

 今年の梅雨入りは平年より一日早く6月の6日でしたが、梅雨明けは何と6月27日と22日も早い梅雨明けが発表されました。そうすると暑い夏が長引くことが予想されましたが、早くも長雨が続いたのでこれは「戻り梅雨」であると・・俳句の季語にはもあるそうですが衣装合わせに苦慮しますね。長引くコロナ禍を心配する我が高齢者の多くは早々と3回目のワクチンを済ませて構えていたところ4回目のワクチン接種の通知がありました。時を同じくして第7波の襲来と云われ、まだまだ緊張感は続きますね   

今年の福ちゃん
ここ八丁目でも大雨に備えて側溝の掃除くらいは思っている処へ「ヒキガエルの福ちゃん」が今年ものっそりと来てくれました。昨年より少し小振りになった感じですがあの縞模様からして間違いはなさそうです。軒下の茗荷の林の中に入って居心地を確かめているようです。昨年は3匹も揃って顔を出してくれましたがどうなる事か、取り敢えず深めの大皿を埋め込み水辺を造って様子を見ていますが、気に入ってくれるかどうか?

翌日の大雨で洪水注意報が発令され最近にない高水位に見舞われましたが、ここ春日部市内では「首都圏外郭放水路」の恩恵を受けて何の被害も受けず過ごすことが出来ました。けれども近隣の市町村では被害が見受けられたところもあったそうです。この異常気象(温暖化)は世界的に起きているようでアルプス山脈で大規模な氷河の崩壊が報道にありました。遠い国の事とは思わず日頃から災害に備えることが要と               思います。

 令和4年 文月          八 大

博多祇園山笠

櫛田神社
 正式名称は櫛田神社祇園例大祭と云われ、古くから博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている櫛田神社のお祭りです。七百年を超す伝統を誇り毎年7月1日から行われる福岡を代表するお祭りで、国の重要無形民俗文化財に指定されています。掛け声の「おっしょい」が有名ですが、なんと云っても15日のクライマックスは「追い山笠」です。

博多祇園山笠フィナーレ
早朝から「櫛田入り」し5分おきに境内を出て約5㎞のコースを懸命に走り抜け「廻り止め」と呼ばれるゴールを目指します。走りながら担ぎ手が交代するので一つの山笠に数百人の男たちが群がり走り続けます。櫛田入りと、廻り止めをそれぞれタイムが計測されるので山笠同士のスピードが勝負になります。熱気むんむんの山笠めがけて樽に入った水をぶちまけられる様子はまさに男の世界です。

社伝には757年(天平宝字元年)伊勢の松坂にあった櫛田神社を勧請したことに始まるとされ御祭神である大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられるが平安時代末期、平清盛が所領の肥前の国、神崎(佐賀県神埼市)の櫛田の宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が有力です。その後戦国時代に交配しましたが1587年(天正15年)豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営されたと云います。

山笠の収納

話は変わります 二十数年前に櫛田神社をお詣りをした後、偶然にも永六輔さんのラジオ放送が流れていて「かろのうろん」の話がありました。聞いているとすぐ近くなので看板を探して入ると3時を過ぎているのに8割の込み具合でした、博多っていうところは凄いところなんだと思った。「かろのうろん」とは「角のうどん」のことで博多の老舗うどん屋さんの事ですが、本当に旨いうどんでした。いろいろと能書きはいりません本物の美味しさを味わいました。今でもその味を思い出せます。

 

令和4年 文月          八 大














椰子の実

     「椰子の実」

      名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子やしひと
  故郷ふるさとの岸を離れて なれはそも波に幾月いくつき


  旧もといやしげれる 枝はなお影をやなせる
 
 われもまたなぎさまくら 孤身ひとりみの 浮寝うきねの旅ぞ

 

  実をとりて胸にあつれば あらたなり流離りゅうりうれい
  うみの沈むを見れば たぎ異郷いきょうなみだ

  

  思いやる八重やえ汐々しおじお いずれの日にかくにに帰らん


椰子の実
この詩は1898年(明治31年)の夏に柳田国男が1ヶ月半ほど愛知県の伊良湖岬に滞在した時恋路が濱に流れ着いた椰子の実の話を「海上の道」という本に載せました。風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを三度まで見たことがある。どの辺りの沖の小島から海に浮かんだものかは今でもわからぬが、ともかくも遥かな波路を越えて・・こんな浜辺まで渡ってきていることが私には大きな驚きであった」と。

東京に戻って島崎藤村にこの話をしたことで「椰子の実」の詩が生まれたそうです。作者が「何千キロも離れた遠い島に思いを寄せ此処に辿り着くまでにいったいどれくらいの歳月がかかったのだろう・・・」と詠うこの詩を聞くと、自然に望郷の念が湧き上がって来てしまいますが不思議な気がしますよね。

椰子の実一つ

1936年(昭和11年)に日本放送協会(NHK)日本放送協会大阪中央放送局で放送中であった「国民歌謡」の担当者が作曲家の「大中寅二」宅を訪問して、この詩に曲を付けるよう依頼され7月9日に曲が完成したもの。東海林太郎の歌唱で一週間放送されると職場や学校でも歌われ、12月にはレコードが発売されると広く愛唱されていった。

愛知県、渥美半島の観光案内所では1988年(昭和63年)から毎年、「椰子の実」の再現を目指し、「遠き島」に見立てた石垣島沖で標識を付けた「椰子の実」を投流するイベントを開催しているそうです。投流された椰子の実が鹿児島県以北で拾われた場合には、発見者と投入者を伊良湖岬へ招いて対面式が行われており、2020年までに3個が伊良湖岬がある田原市に漂着しているが、恋路ケ浜へはまだ漂着したことがないそうです。

NHK連続テレビ小説『ちむどんどん』は、2022年に本土復帰50年を迎える沖縄が舞台です。沖縄料理に夢をかけるヒロインで、四兄妹の次女の上白石萌歌が演じる比嘉歌子が「椰子の実」を歌唱していますネ。このような昔懐かしい叙情歌はいつ聞いても懐かしさが込み上げてきますね。この処コロナ禍によって帰郷が叶わなかった人たちも多くいたと思いますが今年のお盆には安心して懐かしい故郷に集まれるといいですね。

 令和4年 水無月          八 大




道草について

道草を食うとは                                    「馬が道端で草を食べていることで、歩みが遅くなる こと。転じて目的地に行く途中で他の事に時間を費やしてしまう事を云います。」

道草を食う
子供の頃「道草をしないで帰って来なさい」と母親にたびたび云われたことがありましたが、そんなに真面目じゃなかったので学校帰りに友達と途中あちこちに寄り道しながら暗くなるのを忘れて遊んだことを思い出す。「道草ってどんな草」っていう事を云いだす子供でした。よほど何かなければ真っすぐに家へ帰ったことはなかった。 でも今になって振り返ってみると、道草を食う習慣が自分の人生を豊かにしてくれたようにも思えます。

暫らくぶりに各駅停車に乗ると、停車する駅名も車窓の景色の移り変わりも思いのほか新鮮に感じられた。ただ躓きもなく順調に近道ばかりを歩いて一生を終えてしまう人がいるとしたら勿体ない話です。大切なものを見落としてしまっているかもしれませんよね。人生の寄り道や回り道によって今迄に気付けなかった、風の匂いや季節の変化に感動を覚えることによって、細やかな配慮の出来る人へと創られていくのではないかと思います。

「究極の道草は旅である」                            若い頃には興味を持ったことに理屈抜きで取り組んで来たがそれは「人生の種まきの時期」でもあった。これからの時間は自分の人生を豊かにするために使うもので、敢えて道草を食うということは人生に彩りが添えられる大きな財産である。最近は道草という言葉そのものを使う機会が減っているけれど、何故だろうか? 道端に草が生えていないのではなく、草を喰いに行く気概が減っているのではないかと思える。

 令和4年 水無月         八 大
















茗荷(ミョウガ)

茗荷
 梅雨のこの時期、青々とした茗荷の茎が伸びてその根元にふっくらとした茗荷が芽を出し私を迎えてくれました。そろそろ私の出番です・・と云いながら可愛らしい新芽をトンガラセテお目見えです。茄と胡瓜と茗荷の浅漬けは最近では年齢のせいもあり、食が細くなったにもかかわらず茗荷の歯触りと食感は別腹でありついつい食が進んでしまいますね。

茗荷は収穫時により「夏みょうが」や「秋みょうが」などと云われていましたが現在では栽培方法の改良によって通年で出回っていますね。そうめんや冷奴、蕎麦などの薬味としても利用されており、昔も今も夏バテ対策にはもってこいのアイテムです。

収穫された茗荷
茗荷にはビタミンCやカリウム、食物繊維などが多く含まれているそうです。また熱を冷ます解毒作用があるなどの効果があり夏の食卓には欠かせない存在です。かつては「物忘れがひどくなる」という俗説もありましたが、むしろその香味で集中力が増す働きがあるそうで根拠のない言いがかりだったようです。

話は変わりますが、東京都文京区の小石川には「茗荷谷」という地名が残っております。これは江戸時代に牛込早稲田あたりから小石川にかけてミョウガの栽培が盛んだったらしく、その谷間(畑)を見下ろしたことに由来したと云われています。

 令和4年 水無月        八 大





ブロッコリーの話

青虫に食わられたブロッコリー

 我が家はこの時期ブロッコリーを狙うアオムシの駆除から始まります。5株しかないブロッコリーですが朝起きていきなり葉っぱに近づくと毎日食べられていて、その穴は数えきれないくらいです。丁寧に割り箸を使って一つ一つ駆除していきますが毎朝その数は40匹をこえます。アオムシブロッコリーをはじめキャベツ、小松菜、カブなどアブラナ科の野菜の大敵です。犯人は モンシロチョウの幼虫で卵は葉の裏に点在して産み付けられるようで、葉の裏から穴をあけて食べられるようです。このまま育つかどうかこの先が心配です。

ロッコリーはビタミンやミネラルが豊富に含まれているのに低カロリーで特にカリウムや鉄分・ビタミンCが多く含まれており筋力を付けるためには最高の食材と云われております。ボディビル大会に出るようなマッチョから、ほどよく筋肉がついた細マッチョ、最近ではメリハリのついたボディラインを維持する筋トレ女子までが食されているそうです。

ブロッコリーの歴史は古く原産地はヨーロッパの地中海沿岸だと言われていて、ローマ帝国時代にイタリアを中心に栽培されていたそうです。中世にかけてヨーロッパ全体に広がり、移民などをきっかけに19世紀の後半にアメリカへと広がっていきました。日本での普及し始めたのは明治の始め頃に伝わったそうで、つい最近の野菜であるとも云えますね。もともと野生のキャベツを品種改良して生まれたものらしく、これをさらに改良して出来たものがカリフラワーだそうです。

料理の先生に聞くと、 ふだん食べているのは花蕾といわれる部分ですが、茎もやわらかく栄養もたっぷりです捨てるところはないと。お湯で茹でるより、電子レンジで調理する方が栄養素がたっぷり摂れるのでおすすめだそうですが、茹でる場合に比べると、水に流れ出やすいカリウムやビタミンCなどの栄養素の損失を防げます。含まれる栄養素の多さからブロッコリーは「野菜の王様」と呼ばれているそうです。


 令和4年 水無月          八 大










秘すれば花 とは

 能楽の大成者で室町時代に「世阿弥」という人が居りましたが能の理論をまとめた「風姿花伝」と云うものがあります。今から700年以上前に書かれた本ですが最近ビジネス書として改めて注目されているそうです。  その中に「秘すれば花」という言葉がありますが時代を超えて受け継がれた芸の神髄について書かれています。

芸とは人々に感動を与えるもので思いもよらない感動を与えられたとき、それを「花」と云うそうです。花は演技の中でさり気なく見せられるもので、それを軽々しく人に話してしまってはどんなに素晴らしい演技や演出であったとしても花ではなくなります。役者にとって「花」とは観客に感動を与えるキモであり自分だけの物として大切に持っていて、なくてはならない物であります。

今の言葉に置き換えると花とはサプライズのようなもので、相手に心の準備をさせることなく不意打ちを食らったような感動は何倍も膨らみ余韻を伴うもので観客に感動を与えるものです。そのこころが「秘すれば花」ですね。

よく似た言葉に「言わぬが花」という言葉もありますが「言わぬが花」ははっきりと云わない方が値打ちや味わいがあるという事になります。「秘すれば花」は云わないどころか、秘密がある事さえ隠しておきなさいという教えですから、より秘密度が高いと言えます。

「言わぬが花」は自分からペラペラしゃべることで、自分の価値を下げることにもなり兼ねないことになります。余計なことは一言も言わないようにと云う戒めの意味合いもありますね。お互いすべてを見せてしまわないで秘密の部分を持っておく方がその重みを感じさせます。そういう事では何か恋愛にも通じるものがありますね。

 令和4年 水無月         八 大



行為の意味

  「思いやりを行動に」  

  あなたの心はどんな形ですかと
   人に聞かれても答えようがない
  自分にも 他人にも心は見えない
   けれどほんとうに見えないのであろうか

  確かに心はだれにも見えないけれど
   心づかいは見えるのだ
  それは 人に対する積極的な行為だから

  同じように胸の中の思いは見えないけれど     
   思いやりは見えるのだ
                                   それは 人に対する積極的な行為なのだから                                                  

  あたたかい心が あたたかい行為になり
   やさしい思いが やさしい行為になるとき
  「心」も「思い」も、初めて美しく生きる
  それは 人が人として生きることだ
  

  [

[私達の道徳 小学校5・6年]              

羽生市の出身で詩人の宮沢章二さんと云う方がおられました。埼玉県の内外で小・中・高等学校、300校以上の校歌の作詞をされたことで知られております。

宮沢さん作品の一つに「行為の意味」という詩があります。「行為」とは、「行動・行い」のことです。「あなたのこころはどんな形ですか」という問いで始まるいこの詩は「思いやりを行動に移すことの大切さ」を伝えています。

今から11年前に起こった東日本大震災の直後、未曽有の災害による大きな衝撃が日本を覆う中、テレビから発信されたこの詩が復興へ向かう日本の背中を押してくれました。その時に使われた「行為の意味」という詩の一節です。                     「心は誰にも見えないけれど、心遣いは見える。思いは見えないけれど思いやりは見える」

この部分はいろいろな場面で使われていましたが世界中が10年以上たった今、コロナ禍と云う大きな困難に遭っています。人と人との接触が制限され、コミニュケーションの取り方もこれまでと変わってしまいました。そんな時ですが「何か自分にできることはないか」「誰かのために役に立つことはないか」と行動してみることが大切だと思います。

 令和4年 水無月         八 大





カルミヤの花

我が家のカルミヤ
 カルミヤ アメリカシャクナゲ(石楠花)と呼ばれており明治時代に桜をアメリカに寄贈したお礼として渡来したものだそうです。別名をハナガサシャクナゲとも呼ばれ花の形を花笠に見立てたようで星形のつぼみも面白いですね。アメリカでは自生の植物でインデアンが根からスプーンを造っていたので「スプーンの木」とも呼ばれているそうです。

日本でも最近園芸用として栽培されておりましてよく見かけるようになりました。我が家でも20年ぐらい前から庭の片隅で1mほどの高さで一本だけ咲いています。ピンク色が一際目立っており、この時期だけですがお姫様のような扱いを受けておりいます。チョット見ると五角形の形は金平糖のようにも見えている時もあり懐かしさもあります。

花の形をよく見ると小さな五角形のパラソルがたくさん開いているようで何とも可愛らしいでね。花言葉は「大志を抱く」「爽やかな笑顔」「野心」とありますが、実はカルミヤの葉にはシャクナゲやツツジ科の植物にあるグラヤノトキシンと云う毒を持っており、誤って食べると下痢や嘔吐になりやすいので注意が必要です。そのためカルミヤは
安行の史跡巡りの途中で
別名「羊殺し」
という名前が付けられているそうです、それなりのご注意が必要です。

晩春の頃つぼみが膨らみこの梅雨の頃に掛けて一か月ぐらい少しずつ開いていくので色の変化もあります。長い間楽しませて戴いた上花が終わった後も散らずに少し茶色になりましたが春を見送っております。

安行の史跡巡りでは花と緑に囲まれて楽しい                     一日となり感謝の一日でした。

 令和4年 皐月          八 大




「初夏の風」川上澄生の版画

本棚を整理していたら一枚の絵ハガキが 出てきた、なんとこの清々しさは・・。

あれは確か30年ぐらい前でした、車で日光の田母沢御用邸を見に行くときに途中の鹿沼市を流れる黒川の近くを通りかかった際「川上澄生美術館」がありました。この辺りではあまり見かけることのない建物だったので美術館の中に入ってみました。薄緑色の版画が展示されており・・ なんじゃこりゃ? と思った記憶がありました。

初夏の風

 かぜになりたや 

はつなつのかぜとなりたや  
                         かのひとのまえにはだかり

かのひとのうしろよりふく

はつなつのはつなつの 
                         
かぜとなりたや 


川上澄生は父親の仕事の関係でアメリカやカナダにに滞在しその間当地の美術学校に学び、帰国してからは栃木県・宇都宮旧制中学校で英語の教師として赴任し、好きな版画や詩の制作にも打ち込んだ。大正11年に発表した「初夏の風」は版画と詩が一つの画面で響きあう独自の世界を作り出したという事で版画界で大きな反響を呼びました。

棟方志功が版画家になるきっかけとなったのは川上澄生の作品だったと云われています。


川上澄生詩と絵の世界



鹿沼市立川上澄生美術館








へっぽこ先生



波囲み南蛮船










 令和4年 皐月        八 大







「オシラ様」蚕の神様

オシラ様
オシラ様

初夏の今頃を皐月と云いますが「木の葉採りの月」という別名があり蚕のエサである桑の葉を摘む頃と云う意味です。養蚕は戦前まで日本では盛んでたくさんの桑畑が広がっており蚕は美しい糸をはいて繭を作りその繭から絹の糸が取れます。東北地方では蚕と家の守り神である「オシラ様」が広く信仰されております。


桑の葉
主に村の旧家などに祀られていて、生活に深く浸透している              であります。オシラ様は人形神で、ご神体は30センチほどの長さの桑の木で作られた二体一組の偶像です。その姿は馬頭、姫、男女、など、そのお顔は彫刻や墨書きなど様 々である。ご神体である桑の棒は、元々はオシラ様を宿らせ る道具から変化したもので、桐の箱などで大切に保管されて いたそうです。


「遠野物語」で有名な遠野市は岩手県花巻市の東側にありま
曲がり家
すが、昔から柳田国男がこの地方に伝わる逸話や伝承などを
蒐集したもので日本民俗学の先駆けとも云われており良く知
られております。この地方独特の「曲がり家造り」の旧家に
上がらせて頂いてオシラ様の話を聞いたことがありました。
ご神体を前にして老婆の語り口は何とも恐れ多い感じがして
ジッとその口元を見つめているだけでした。


絹織物の歴史 シルク素材は最も古い繊維と云われおりますが、何と紀元前の20世紀に中国で始めたと云われています。中国の皇女が当時「繭」で遊んでいた際に繭をお湯の中に落としてしまいました。しかしそれを拾い上げる時に糸を手繰ったことで絹糸つくりの最初だった事が伝わっています。また中国の甲骨文字に「桑」「蚕」「糸」「棉」などの文字が見つかっております。シルクを養蚕する技術は中国で発達しましたが国外に持ち出すことは禁じられていました。その為ヨーロッパの人達はどうにかして手に入れようとして中国との交易したそうです。その交易の道が「シルクロード」という言葉に繋がります。

シルクロード


現在では多くの布製品が化学繊維に変わっており国内で生産を続けているメーカーは生産コストが合わずに国内の養蚕家が少なくなっております。絹製品のほとんどは中国やブラジルなどにに変わっており日本のシェアは僅かに10%になっているそうです。時代の変化とは言え将来が心配ですね。


 令和4年 皐月         八 大