「元山大師」

小淵観音
 先週に5回目のコロナワクチン接種を済ませました。足掛け3年に亘り世界中の人が迷惑を受けており、これ以上の延長はお断りを願って日光街道沿いにある小淵観音院にお礼参りに行ってきました。皆さんご存知、神仏習合で修験宗のお寺でもあり疫病退散を願う事で古くから多くの信仰者に親しまれております。コロナ感染が流行り出したころアマビエの悪神(妖怪)が話題となりましたが、何の効力もなくこの3年間で5回のワクチンのお世話になりました。

先日知り合いの農家に顔を出したところ玄関わきに「角大師 つのだいし」の絵札が飾ってありまして一目で家の守り札と分かります。疫病退散を祈願したお守りで古い農家では、今でも信仰の証として見かけられています。それは何故か? 疫病が流行った時「元山大師」良源さん(実在の僧侶)は村人を救うために鬼の姿になって、疫病神を追い払いました。その姿を写し取ったのが元山大師のお札でした。そのお札を貼ると人々は疫病から免れたと云われており魔除けのお札として広く伝わって行きました。鬼の姿をしていますが賢い比叡山の僧侶でありその正体は、2本の角が生えた角大師と云われておりました。

元山大師の説明
鬼の姿をして疫病神を追い払ったことから元山大師(がんざんだいし )のお札は疫病退散のご利益があると云われております。疫病退散と云えば先ごろ騒がれていたアマビエが有名になりましたがアマビエは妖怪ですが元山大師は実在した僧侶です。アマビエは江戸時代での噂話ですが、元山大師が疫病を退治したのは10世紀の後半で実在の話として伝わっています。

元山大師と平安時代に活躍した天台宗の偉い僧侶であった良源(りょうげん)のこととして知られており、1月3日が命日であることから、今日では「元三大師」という名で親しまれるようになったと言われています。鬼の姿をして疫病神を追い払った事から元山大師のお札は疫病退散のご利益があると云われました。大変頭がよく、天台宗の総本山である比叡山で様々な功績を収めたと伝えられており、おみくじの起源をつくったのも元三大師だと言われています。

 令和5年 皐月        八 大








今年の「ヤマホウシ」

今年のヤマホウシ

 今を盛りと真っ白な装いを見せているヤマホウシでありますが、今年の装いは一段と華麗であり居丈高さを感じさせます。小さな箱庭のような地面ですが、その中央に株立ちのヤマホウシが存在感を示しております。あの蒸し暑い夏の日差しをを避けようとして15年程前に植えたものでしたが今では屋根を覆い隠すまでに育だっており充分にその役目を果たしてくれてます。
                                ヤマボウシの総苞の部分と中央の花の集合体が、写真のよう
な頭巾をかぶった僧侶(比叡山延暦寺の山法師)に似ている
ことからこの名前が付けられたとも云われます。白い頭巾が肩
にかかって広がっているところが、ヤマボウシの総苞に似
ると思った人がいるんですね。
例年のヤマホウシ

今年はどうした訳か御覧のように白い花弁にピンクの模様がところころに入っており例年と一味違う趣を見せている。以前から純白で清楚な趣を愛でておりましたが、突然変異なのか・・・? 初めての事でビックリしております。

早速家に戻ってパソコンで調べて見るとなんとまたまたビックリ・!自分が見ていないだけでピンク系の色の入った山法師は他では見かけるようです。でも純白なヤマホウシは清楚そのもので白色の基本のようです。ヤマホウシの花言葉は「友情」です。中央に集まる頭上の小さい花が、秋に団結して一つになる様子からもこの花言葉はとてもピッタリだと思います。



                                          








                     

我が家の対岸から古利根川超しに見えるヤマホウシは存在感があり、瞬時ではありますが我が世の春を満喫させてくれています。水面には「鳰」の母娘らしい姿が小忙しく纏わりついている姿は子供の頃の自分を思い出させる、こんな風景どこかで見たようで懐かしさを感じられます。                                             

 令和5年  皐月        八大

                                   

               



遠藤さんちの庭園

突然の音信不通から半年・・ご迷惑をお掛けしました。再スタートです!

 この時期には毎年恒例となっいる、遠藤さんちの庭園が今年も見事に開園がなされ小さな駐車場が溢れていました。東武アーバンパークライン(東武鉄道,野田線)牛島の駅から歩いて10分位です。どうしたらこんなにカラフルなお庭が出来るのか何とも羨ましい限り、いろいろな種類の沢山な種類の「バラの花」が迎えてくれますが珍しい草花もあり毎年楽しませて頂いております。  心優しい遠藤さんにいつも感謝しております。

 令和5年 皐月         八 大








他の



とんぶり

とんぶり
とんぶり なんて言葉は最近は聞かないですね。「とんぶり」とは・・アカザ科のホウキ草の実を加工したもので緑褐色しており別名を「畑のキャビア」と呼ばれています。箒の材料とするためホウキ草を広く民間で栽培していた。近世の日本で飢饉に瀕していた出羽の国、米代川の流域で暮らす民がその果実を何とか工夫して食べることに迫られ加工したのが始まりと云われます。

主な産地は秋田県ですが、名前の由来については「ぶりこ(ハタハタの卵)に似た、唐伝来のもの」を意味する、「とうぶりこ(唐ぶりこ、唐鰤子)」が省略され、転化したものとする説が有力のようである。嘗ては秋田、山形などの一部の地域で食用にするにするに過ぎなかったが近年では生産量が増大しているそうです。蒸して水に晒して皮を除き大根おろしや、とろろ芋に和えてたべます。

とんぶりその物に味はないが、大根おろしや納豆などを混ぜてアツアツの白飯にのせて食べると凄く美味しい。シンプルではありますが酒のあとの〆などに最適でありますね。またスパゲッティー等の麺にと合せると醤油やポン酢、ソースなどが絡まって、和風の料理の添え物になってより美味しく食べられます。

健康の面から言うと高齢者にとって腸内環境を整えるといわれている「食物繊維」がとんぶりには豊富であり、100gあたりには7.1g含まれており、食物繊維は日本人に不足しがちな栄養素なので意識的に摂取するの良いと云います。またとんぶりに含まれているカリウムには、身体の余分な塩分を排除するはたらきがあるので、血圧が気になる人や、むくみやすい体質の人には特にお勧めだそうです。

コキアの紅葉
ここでビックリすることがあります!                        「ひたち海浜公園」では7月上旬から夏の日差しを浴びてすくすく成長していくライムグリーンのコキアは、丸々として可愛らしい形と柔らかな感触を楽しませてくれます。10月上旬には、夏の緑色から少しずつ紅葉し始め、日々移ろいゆく緑と赤のグラデーションの色合いも魅力的ですね。また鮮やかに紅葉してみはらしの丘を真っ赤に染め上げる様もまさに絶景です。そのそのコキアがとんぶりと呼ばれているのです。 
(11月6日には刈り取りを行い来年に備えるそうです)                                  

  令和4年 神無月        八 大
















サフランの話

畦道のサフラン
第7波コロナ禍が収まりかけた晴天の下、久しぶりの史跡巡りは千葉・茨城・埼玉の三県堺である野田市関宿の土手道を歩きました。日頃馴染みのアスファルト道ではなく何とも言えないふんわり感を踏みしめながらの心地よさは精気を貰えます。農家の畦道で野に咲く花の集団を見つけましたが、花の名前が出て来ません。誰かがサフランでは?との声・・正解です。けれども私は子供の頃に見ていたクロッカスではないのかな・・?自信のない同調の自問自答あり。

サフランと云う花はアヤメ科の多年草で、そのめしべを乾燥させた香辛料を云います。イランが原産地と云われますが諸説あるようです。地中海のある島で発掘された壁画には青銅器の時代から栽培がなされたと云われ古い歴史があるようです。耐寒性の秋植えの球根植物で、原産地はヨーロッパ南部地中海沿岸で晩秋に咲き、花を薬用やスパイスとして用いるサフランに対し、クロッカスは早春に咲き観賞用にのみに栽培されるため、花サフランと呼ばれているそうです。球根は球形が4㎝ぐらいで細長く、花の終わった後に茎がよく伸びます。花はほとんど地上すれすれの所に咲き、黄色・白・薄紫・紅紫色・白に藤色の絞りなどがあります。

クロッカス

古い歴史を持つ花で旧約聖書にも記述されており、彼のクレオパトラがサフランを入れた馬乳のお風呂に入っていたなどと云う伝説があるほどです。そんなサフランは料理に鮮やかな黄色とほのかで上品な香りを付けるスパイスとして、パエリア、リゾット、ブイヤベースの他サフランライスなどに使われています。

またサフランは世界一高価なスパイスとしても知られており、高価な物では1グラムが1,600円ぐらいするそうです。そうは言
サフラン

っても日頃サフランを使い慣れていないと、それがどの位の量
なのかわかりづらいですよね。過去には日本の各地でも栽培を
されていたそうですが人出不足などで減産され、現在では大分
県竹田市でしか国産のサフランは作られていないそうですよ!

 令和4年 神無月       八 大 





湯楽の里での話


最近ではコロナ禍の影響により心の動揺を挙げる人が増えており、結果的に良く眠れない人が多いと云われていますが・・・という私もその一人です。夜中に二度三度と目が覚めると翌日が悶々として辛い思いが残ります。東口にある「湯楽の里」へ行くと世間話の多くはウクライナ問題と統一教会の問題が話題になっています。最近は良く眠れない人の話も聞きます。野天風呂に入り話のボリューウムを絞って天下の情勢を語ることも多々あります。                        

ウクライナ問題 ウクライナへの侵攻が始まったが多くの人達はこの戦争は一週間ぐらいで終わってしまうだろうと思われたがナントナント今現在8か月を過ぎようとしています。戦況当初大幅に攻め込まれていた状態で一進一退が続いていましたが米国とEU諸国の軍事支援を受けて盛り返し、攻め込まれていた領土を再び取り戻しにかかり勢いを増している状況です。寧ろここに来てロシア側からの停戦交渉の話が出て来ましたが、戦争前の状態まで押し戻す事が最低ラインです。ここは踏ん張りどころ「ウクライナ頑張れ!」

統一教会問題 宗教の問題は歴史を遡って見るまでもなく大きな問題ですが、基本的に信教の自由という大原則があります。世間話をするにしても相手と場所を選んで行わなければならないと思います。ここに来て思いもよらないマインドコントロールと云う言葉が出て来ていますが難しい問題であります。統一教会の関係者が「自分は統一教会の人間である」ことを隠した状態で一般の人に言葉巧みに勧誘を行い入信を迫っているとのこと。またお布施と称して信じられないような高額な献金をすることによって家庭環境が崩壊されている事が問題となっています。合同結婚式や親子の絶縁にまで至ったことが大きな社会問題となり、ようやく国会でも取り上げられていくようです。

睡眠不足の話 喧々諤々思いの丈を出し合った後は、最近はよく眠れないことが多いけれどどうしたらよい眠りが出来るのか何か良い方法はないのか教えて欲しいとのこと。良い眠りが出来ない人の理由は「何となく夜更かしをしてしまう」「テレビの見過ぎ」「運動不足かもね」と続く。私達高齢者にとって大切な事は「上手に眠る事」だそうです、その為には毎日10,000歩を目標に歩くことだそうです。止むを得ず寝そびれた時には味の素から出ている「グリナ」を服用するとその効果がありましたよ。

人間、歳を重ねても自分の身体の維持のために、肉体は常に現状の更新をし続けているそうです。自分から諦めて身を引いて行くのではなく神仏から与えられた生命を有難く頂戴し感謝の心で遊行の時空を謳歌したいものですね。

 令和4年 神無月         八 大


極楽の余り風

 「極楽の余り風」って聞いたことある❔

夏の終りの今頃の暑い時期、山道を歩いて汗だくになった体に、ときおり清々しい涼風が木陰を抜けて吹いてきました。ああ~こんな素晴らしい風はないネ・・・」と感激(関西では、昔から「極楽の余り風」と言われているとのことです)

 群馬県太田市の金山城址を仲間と連れ立ってハイキングを楽しんでいた時、途中休憩は市街地が眺められる石垣の上で小汗をぬぐっていました。ここで風を感じましたが何とも言えない涼風でした。これを「極楽の余り風」或いは「極楽のお裾分け」と云うそうです。

「涼しくて心地いい風だね」                           「ホントだね、生き返るようだ」                         「こんな風をなんていうか知ってる?」                      「この風に名前があるの?」                           「あるんだよ!」                                「死んだお婆ちゃんが教えてくれたんだけど、極楽の余り風って云うんだって」    「へ~そんな風に云うんだ!!!?                         

とこんな会話があったように思う。そうすると私の習癖で、『酷暑に吹く清々しい涼風がなぜ余り風なのだろうか?』 と、素朴な疑問が湧いてきた。調べて見ると浄土真宗の祖「親鸞」にたどり着いた。親鸞は、猛火・暴風も、徳風・微風に転じられてゆく、すなわち浄土往生を願えば願う中に極楽からのそよ風が吹くと説く。 




空の日

(くにまるくん)
9月の暦を見ると今週はシルバーウイークと呼ばれているようですが、9月19日は「敬老の日」で翌日の9月20日は「空の日」であります。「空の日」の起源は昭和15年に制定された「航空日」が始まりです。この年の「航空の日」は9月28日に行われましたが、昭和16年の航空関係省庁間協議において9月20日と決定されました。また9月20日から30日迄の期間を「空の旬間」とされ現在に至っています。

第2次大戦終戦に伴う一時休止もありましたが、昭和28年に再開され民間航空再開40周年にあたった平成4年に、国民の親しみやすいネーミングということで、それまでの「航空の日」から「空の日」へ改称されました。この期間には、全国各地の空港等で航空に関する様々な催し物が実施されるようになりました。

平成4年に「空の日」「空の旬間」を設けた際に、「9(く)2(に)0(まる)」=「くにまるくん」が誕生しました。地球が飛んでいるその躍動的な姿は、地球的規模での航空による人、物及び文化の交流を表しています。また「空の日」のキャッチフレーズは「もっと感動、空はフロンティア」航空の楽しさと限りない可能性を表します

ハッピーマンデー制度」により本来9月15日だった敬老の日が9月第3月曜日なりました国民の祝日法に関する法律(祝日法)は1985年12月27日に「その前日及び翌日が『国民の祝日』である日(日曜日にあたる日及び前項に規定する休日にあたる日を除く。)は、休日とする。」と改正されています。今後は「空の日」と並んで「川の日」も祝日に格上げになる可能性もありそうですね。(そんなに休日を増やしてイイんでしょうか?)

 令和4年 長月        八 大




藤袴(フジバカマ)

 左側に川久保の藤袴
昨日は我が家から古利根川の右岸に足を運ぶ。風のテラスを過ぎ人道橋下をくぐり抜けて川久保公園に出ると休憩が出来るベンチがあります。土手の水溜まり下の木札看板を見ると「フジバカマ」との表示がありよく見ると雑草にしか見えない藤袴らしい植物が所在なく生えている。改めて見直すとこれがフジバカマなんだと認識する。

先日の京都新聞にフジバカマと云う植物が絶滅危惧種に指定されており保護の運動が展開されていることが載っていました。何の変哲もない雑草にしか見えない植物でありますが秋の七草の一つに数えられ万葉集にも詠まれていることで保護活動がなされているようです。                   

藤袴の花の色は藤色を帯び花弁の形が袴のようであることから「藤袴」の名が生まれたと云われているそうです。環境省のレッドデータブックでは準絶滅危惧種に数えられています。フジバカマにはいくつか種類があるようですが、はっきりした区別はなされていません。

開花した藤袴
万葉の昔から日本人に親しまれており日本へは、古く中国から渡来し帰化したと考えられていますが、日本在来のものもあると云われております。日当たりのよいやや湿った河原の堤防や草地に自生しているのが大半です花の時期には匂いを嗅ぐと桜餅の葉のような香りがするようで観賞用に庭や鉢などにも植えられています最近では川岸の護岸工事によって自生種が激減しているそうで、近年の地球環境の変化によって数を減らし環境省レッドリストでは準絶滅危惧種に指定されています

花の色が藤色を帯び花弁の形が袴に似ていることから「藤袴」の名が付いたと云われています。「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花」と古くから秋の七草の一つにも数えられております。また源氏物語には「藤袴の巻」があるなど日本人には古くから親しまれてきた草花です。藤袴の花言葉は「あの日を思い出す」「ためらい」「躊躇」などがあります。

  令和4年 長月         八 大











無花果(イチジク)の話

無花果
無花果は落葉低木果樹で、日本には江戸時に入ってきたそうで初めは薬用だったそうです。旬は八月の終りから十月にかけて花を咲かせずに実を付けるように見えるが実際にはイチジクの花は果実の中に咲くという面白い構造をしています。イチジクの果実を切断すればわかりますが、その内側には空洞があって、そこにとても小さな花がいくつも咲いています。 花が無いのではなく外から見えてないだけなんです。ただ普通の花とは違って花びらがありません。イチジクの実を食べるとぶつぶつしている部分を感じられますが、あれがイチジクの花なんですね。                    

イチジクは受粉によって子孫を増やさないで、花が受粉を経ずに実、ひいては種になるという単為結実(たんいけつじつ)なのです。そのため、別に花が外に出ている必要はないのです。何故そのような形になったのか不思議ですね? その答えはイチジクの進化にあるそうです。イチジクはぶどうと共に紀元前から栽培されていた果物でエジプトやトルコが原産地だそうですが、そのころに「イチジクコバチ」と云う名前の小さな蜂がイチジクの底部にある小さな穴から入り内側に産卵をしていました。そうすると、孵った幼虫は養分と外敵から身を守れる空間を確保できます。そうして安全に成長できたわけです。                  

イチジクの断面

成虫になると、イチジクコバチは花粉をまとって出てきます。そして別のイチジクに自身も産卵します。すると一般的な花のつき方をしなくても内側に咲かせたまま受粉できるので、こうした経緯で現在の花のつき方になっているそうです。昔はハチに花粉を媒介させていましたが現在は先述のように単為結実のため、「食べたらハチがいる」なんてことはありませんのでご安心ください。

旧約聖書の登場人物、アダムとイヴにまつわる話があります。 ある日、蛇にそそのかされ、神の言いつけを破ってイチジクを食べてしまいます。禁断の果実を食べたあと、無垢を失い知恵をつけたアダムとイブは、裸を恥じて局部を隠しますが、それにイチジクの葉を使ったというのです。その姿を見て神はエデンから追放したというので、イチジクの葉が楽園追放の引き金ともいえそうですね。 そのイチジクの葉っぱが恥隠しの意味があったと云われています。

イチジクの葉について一言 「恥ずかしいことや嫌なことを、無害なもので隠す」という意味で広く使われています。また、絵画や彫像で、外性器の部分を後から覆い隠すためにイチジクの葉が使われることがあります。これらは聖書の創生期においてアダムとイヴが知恵の樹から禁断の果実を食べた後に、イチジクの葉(fig-leaf)恥ずかしいと思われる物を使って裸体を隠したといわれます。

「無花果(いちじく)」と云う文字は花を咲かせずに実をつけるように見える ことに由来するそうです。古くから馴染みの深い植物で栄養豊富で美容効果もあることから身近に食用にされて来ました。

 令和4年 長月         八 大



















おわら風の盆

艶やかな女踊り
 越中富山の「おわら風の盆」は、おわら節の哀愁を帯びた胡弓の旋律に乗って坂の多い街の道筋を無言の踊り手たちで洗練された踊りが披露されます。毎年のように訪れる台風シーズン(二百十日の厄日)になりますが、静かに通り過ぎて欲しい、収穫前の稲を前にして被害を最小限に通り過ぎて欲しいと願う村人たちの祈りを込めて静かに静かに踊りは進みます。その祭りを越中八尾の村人は「おわら風の盆」と呼んで大切に守り続けてきたそうです。9月1日からの三日間は大勢の見物客が訪れ一年で一番の賑わいを見せます。

街流し
おわら風の盆の起源 は元禄時代に遡ると云われます。起源を記した明瞭な文献もなく、その正確な始まりは分かっていないが、諸説ある中で有力なのは、元禄15年(1702年)「町建御墨付」と呼ばれる加賀藩から下された町建ての文書が、米屋少兵衛から町の人々の手に戻った事を祝って街の老若男女が三味線、笛、胡弓、太鼓などを手に三日三晩踊ったのがその始まりといいます。これを端緒に孟蘭盆会(旧暦七月十五日)で踊り練りまわり、それがいつしか現在のように九月に行われるようになったと云われています。

「町建御墨付文書」とは その昔、米屋少兵衛という人物が加賀藩より「ここに町を作って良いですよ」という許可証「町建御墨付文書」を頂き、八尾に町を作りました。彼は今で言う銀行のような業わいをしており、藩への上納ができない者へ資金を貸し、後日利子をつけて返してもらっていました。しかし景気もだんだん悪くなっていき貸し倒れが増え、ついに八尾を去り水口村というところに移り住みます。その際藩からいただいた「町建御墨付文書」も持って出ました。

数十年経ち、藩は「町建御墨付文書」の返還を要求。しかし少兵衛の子孫はそれに応じませんでした。困った役人は一計を案じ、桜のころ花見だと言ってたくさんの酒や肴、芸人を伴い水口村の米屋を訪ね大宴会を開きます。宴が大盛り上がりをしている間に、こっそりと米屋の蔵から「町建て」の書類を盗み出し、持ち帰りました。無事書類が戻ったことを祝い、役人は三日間昼夜を問わず、にぎやかに歌い踊って町を練り歩いてよろしいというお触れを出しました。それがおわら風の盆の始まりだといわれています

八尾の町は坂の多い処、道筋にたくさんの灯りが燈されるれ三味線や胡弓の音が鳴り響いており、静寂の中に何となく上品な美しさがあり自分を夢のような時空に合せてくれます。この時期に何度か訪ねたましたがその思いをこのまま残して置きたいものだと思います。


「風の盆恋歌」 歌 石川さゆり       作詞 なかにし礼  作曲 三木たかし

 蚊帳の外から花を見る  咲いてはかない酔芙蓉  

          若い日の美しい  私を抱いて欲しかった  しのび逢う恋風の盆

 私あなたの腕の中  跳ねてはじけて鮎になる

          この命欲しいなら  いつでも死んで見せますわ  夜に泣いてる三味の音

 生きて添えない二人なら  旅に出ましょう幻の

          遅すぎた恋だから  命をかけてくつがえす  おわら恋唄道ずれに


小説「風の盆恋歌」のあらすじ             高橋 治 原作を借用

高橋治氏の恋愛小説で、胡弓の哀愁を帯びた響きと優雅な踊りと町の雰囲気が調和した素晴らしいものでした。この小説の主人公は、都築克亮と中出えり子と言う中年の男女です。二人は青春時代に金沢の町で共に過ごし、当時お互いに惹かれながらも、それぞれグループの中の別のパートナーと結婚し、それぞれの人生を歩んで来ました。

この2人が20数年を経て、パリで再開を果たす所からドラマが展開されます。このパリでの再開時に、やはり互いに忘れられない存在である事を強く認識します。この再会からさらに数年を経て、越中八尾の「おわら風の盆」の夜にようやく結ばれます。そして年に3日間だけ、この風の盆に合わせて逢瀬を重ねる事を約束します。

都築はこの3日間の為に八尾に民家を購入し、えり子がやって来るのを待つのです。しかし1年目も2年目もえり子は現れる事はありませんでした。それぞれに家庭や家族があり、それがえり子が簡単に八尾を訪れられない事を感じさせられます。えり子が八尾で待つ都築の所を訪れるには、勇気がいる事だったのでしょう。

そんな中で、えり子はようやく八尾を訪れ、再び都築との逢瀬に身を焦がします。そんな逢瀬での2人の心象風景も繊細に描かれています。しかしそんな逢瀬が可能な年月は長くは続きません。そして次の章では、年に3日だけの大人の恋愛を待ちわびる2人が交わす書簡が綴られます。その中に、それぞれの心象風景が精緻に描かれ、そして何とはなしに破局を予感させるのです。

そしてストーリーは大きく転換し始めます。2人は京都での逢瀬を最後に、しばらく音信普通となり、それぞれの普段の人生を送ります。そしてそんな中で都築は原因不明の病に冒されます。そしてある年の風の盆の日に、えり子の娘が突然訪れ、母は死んだと告げるのです。数日後、えり子を亡くし憔悴する都築に電話がかかって来ます。それは何とえり子からでした。娘は母親の不倫を知り、それにピリオッドを打たせるために嘘をついていたのです。電話口に出た都築は病状が悪化し、息も絶え絶えの状態で、それを感じたえり子は八尾に駆けつけますが・・・・・。

 令和4年 葉月           八 大








盆踊り

 子供の頃、一年中で何が一番楽しいかと問われると盆と正月ほど、嬉しいことはなかったと思っていました。新しい年を迎える心構えを教えられていたように思っていましたね。  お盆の頃私達が育った田舎では小学校の校庭に若い衆達が丸太たん棒を組み立ててくれた櫓を中心に舞台を作り三日間に亘って盆踊りの競演が行われ町中の皆が一体となって夜通し踊っていました。

盆踊り風景

盆踊りの起源は仏教の盂蘭盆会であると云う説が有力です。平安時代、空也上人によって始められて踊り念仏が民間習俗と習合して念仏踊りとして盂蘭盆会の行事と結びついたと云います。精霊を迎えるお盆には死者が家に帰ってくると云う考え方から先祖の供養するための行事として定着して行ったようです。

歴史的なことで考えると村社会では、娯楽と村の結束を強める役目を果たしてと思われます。そのため全国各地にご当地音頭も多く存在しオリジナルな地域的音頭も増えて行ったそうです。お盆の時期に行われますが宗教的な意味合いは薄く農村や庶民の娯楽として楽しまれていました。明治の頃には夜通し騒ぐことが不評を買って衰退した時期もありましたが、大正の中頃から農村娯楽として再び復活されていったそうです。夏休みの期間中には練習の期間も含めて夜通し行われることも多かったため治安の問題もあったそうです。

その昔、高名な民族学者の講演があった時に聞いた話ですが、盆踊りは性の解放のエネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになっていき、明治時代には風紀を乱すとして警察の取り締まりの対象となり一時は激減していたこともありました。けれども盆踊りは未婚の男女の出会いの場に留まらずに既婚者の交際の場?にもなって昭和の初め頃まで続いたと云われています。その後戦争がありまして・・・時代は大きく変わりましたね。


 令和4年 葉月          八 大 





蝉 の話

油蝉
 目の前の 花ザクロの木の下にセミの抜け殻を見つけた。今年の夏はこれが3個目であり油蝉(アブラゼミ)の声はジリジリジリと油で揚げるような鳴き声は暑さを増大させており暑苦しいことこの上ない。鳴く声が油を熱したときに撥ねる音に似ているために付けられたと云われるが他にも翅(はね)が油紙を連想させると云う説もあります。

油蝉の翅は羽化の際は不透明の白色をしているが時間と共に翅が乾いて行くと共に褐色になる。子供の頃、その間2時間余り飛び立つまでをじっと見続けていたことがありましたね。飛び立つときにオシッコを掛けられたこともありました。また油蝉は夜中にも泣くことがあり煩わしく思ったことがありましたね。何でだろうと考えていた時に思い浮かんだことは、七年間も土の中でその日を待ってわずか1~2週間で他界してしまう儚さではないかなと思えた。

つけ麵屋さん
春日部駅東口の旧街道通りにある美容院の隣に「蝉時雨(せみしぐれ)」と云う、つけ麵やさんがあります。15年ぐらい前に開業したと云いますが小生も興味本位で食べに行った事がありました。味は濃厚で旨いと評価できましたが塩分が強いので水で薄めて完食した覚えがあった。最近のグルメ情報誌などの評価を見ると春日部市内ではナンバーワンに輝いているそうです。その後に蝉時雨と云う名前の由来を聞き出そうと食べに行きましたが店主の顔を見ると無口の塊のような雰囲気は諦めざるを得ませんでした。蝉しぐれの言葉からは余計なことは云わないで食べなさい・・!と云われているようで今でも聞き出せてはいません。
蝉の種類は日本では30種ほどあるそうです。この近くでは「ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、クマゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクホウシ、」ぐらいですが沖縄の方には変わった名前が多いそうです。そう云えば「うつせみ」という言葉もありますね。

「蝉」に纏わる気になる言葉

「セミファイナル
地面に落ちて死んでいると思っていた蝉が近ずいた途端に、急に暴れ出して動き出し驚かされた経験があると思いますが? この蝉の最後の大暴れこそが「蝉ファイナル」で別名「セミ爆弾」とも云われるそうです。またセミが人生の最期を迎える直前の状態とスポーツの準決勝、ボクシングではメインイベントの直前の試合を指す「セミファイナル」をかけたブラックジョークでもあります。

蝉の抜け殻
「空蝉(うつせみ)」とは                                うつせみ」と読むこの言葉は、読んで字のごとく「蝉の抜け殻」を表しています。しかし、単に抜け殻を示す名詞としてだけでなく、源氏物語に登場する架空の女性の通称でもあります。蝉の抜け殻の様子から、古来よりむなしいさま、はかないさまの例えとして使われてきました。形はあれども中が空っぽであることからそのように感じ取られてきたのでしょう。その語源は『現(うつ)し人』とされており、つまり、現実世界に生きる人間のことです。仏教の思想では人間の生は、とてもは悲しく空しいものだと捉えられてきました。それなので「うつしおみ」の発音が変化して「うつせみ」という言葉が、抜け殻となって空洞である「空蝉」の文字があてられたと云われます。

   

  閑さや 岩にしみ入る 蝉の声    芭蕉

         蝉しぐれ 一斉に止む 涼しさよ    八大?


 令和4年 葉月          八 大
















無言館

無言館
朝、テレビを見ていると「無言館」をテーマにした話が出ていました。緑豊かな信州塩田平の地に、1997年(平成7年)に開館した美術館で、館主自らが出征経験があり太平洋戦争で没した画学生の遺族を訪問して今でもその蒐集を続けていると云う。その蒐集された作品を展示し慰霊を掲げて美術館として開館したそうです。

しばらく前に訪れたことがあり緑の林の中に見るからに人を寄せ付けないような厳しい感じ受けたのが第一印象でした。こじんまりとした十字架をモチーフにした建物は人を寄せ付けない重い雰囲気を感じてしまうのは何故なんだろう。あの戦争さえなければと・・・こんな思いはなかったんだろうかと述懐してしまう。

無言館命名の由来については、展示された絵画は何も語らず「無言」であるが見る側に多くを語らせるという意味で命名したそうですが、もう一つは見る側の観客もまた展示されている絵画を見て「無言」になるという意味も含んでいると語っております。そういう見方もあるんですね。

前山寺未完の三重塔
離れがたい思いの中、戦国時代川中島の戦いの際武田信玄の本陣ともなって廃城となった塩田城を確認し、未完性の塔(回廊がない)と呼ばれる「前山寺三重塔」を訪ねた。翼を広げ見上げる程の様相は尋ねる人々を迎え入れてくれるような思いがします。それは戦国武将に支えられた信仰と建築のおりなす造形美を今に伝えてくれている。無言館を訪ねた後なので壮大な開放感が印象に残った。


 令和4年 葉月        八 大














火焔型土器

火焔型土器
新潟県の十日町市にある十日町市博物館には笹山遺跡から出土した、縄文時代中期に(約5000年前)に造られたと云われる国宝の「火焔型土器」が展示されております。中学校の教科書にも載っておりますが 燃え盛る炎 をかたどったような形状の土器は縄文土器の中でも特に装飾性豊かでこれだけの美意識を持っていたのかと考えると脱帽しかありません。

縄文時代と云う名前からしてその総てが縄目の模様が出ているのかと思っていましたがこの土器には見られません。上部の4カ所に鶏の頭のような突起が付いておりますが何を表わしているのか分かりませんが全体が燃え上がる炎を思わせることから火焔型土器と呼ばれているそうです。

またその用途としては発見された場所によっては、火で焦げた部分や吹きこぼれの跡があることから煮炊きする鍋に用いられたものと考えられています。火焔型土器は実用性の他にその形状から見て祭祀的な目的に使われたのではないかと云う考え方もあると云われています。

あの有名な芸術家・岡本太郎は昭和26年に偶然、国立博物館で縄文土器を見て「なんだ、コレは!」叫んだそうです。この土器を見て内面から出て来る美に感動した岡本太郎は民俗学的な視点を越えて、大阪万博の「太陽の塔」などの作品に繋がったのではないかと云われております。

 令和4年 葉月         八 大




牛蛙の話

子供の蛙
 昨日の朝、植木に水撒きをしていると大きなバッタのような生き物が茗荷の林に入ったのを感じた。飛ばないで歩いているように見えたので用心深くその林を掻き分けて見るとなんとそれは子供の「牛蛙」ではありませんか。体長は3㎝位で水にぬれたような輝きを持った姿で小さいのに動きは鈍くのっそり・のっそりと移動する姿はあの子孫に違いありません。

牛蛙と云われるのは何でかな・・?と思って調べてみました。 体調15㎝前後の大型のカエルで、「ブォー・ブォー」と牛みたいな鳴き声からウシガエルとと名前が付いたと云われます。ヨーロッパでは皮を剥いた後ろ足が美味しいことから古くから食用ガエルとして養殖されていたそ         うですが、原産地は北米ロッキー山脈の東部に分布しているそうです。

福ちゃんらしき蛙
大正から昭和の初めにかけて農家の副業として養殖が奨励され腿肉の缶詰が米国やハワイへ盛んに輸出されてたそうです。太平洋戦争が始まると一旦止まりましたが終戦と共に貿易が再開されると輸出商品として再び脚光を浴びました。昭和25年ごろの最盛期には冷凍マグロに次いで年間3億円もの貴重な外貨を稼ぐ程であったと云います。けれども昭和44年に米国が牛蛙の腿肉の中に農薬(BHC)が残留していることが問題となりその後は輸出が終わってしまいました。

戦後、私達の年代が育ったころでは牛蛙を食用にしていた話がありましたよ。田舎の年寄りたちが田んぼの畦道で頭にカンテラを付け、食用ガエルを火バサミで捕まえて網の袋に入れて帰る姿をよく見かけました。その当時としてはお酒のつまみを兼ねて貴重なたんぱく源であったと聞かされました。              今では浅草の仁丹塔近くに下手物商品を扱う「福ちゃん」と              云う店が営業をしていましたね。

話が大きく横道にそれてしまいましたが、古利根川縁で独特              の「ブォーブォー」と低音の響きが聞こえる事を待ってます。

 令和4年 文月          八 大









福ちゃん登場 

 今年の梅雨入りは平年より一日早く6月の6日でしたが、梅雨明けは何と6月27日と22日も早い梅雨明けが発表されました。そうすると暑い夏が長引くことが予想されましたが、早くも長雨が続いたのでこれは「戻り梅雨」であると・・俳句の季語にはもあるそうですが衣装合わせに苦慮しますね。長引くコロナ禍を心配する我が高齢者の多くは早々と3回目のワクチンを済ませて構えていたところ4回目のワクチン接種の通知がありました。時を同じくして第7波の襲来と云われ、まだまだ緊張感は続きますね   

今年の福ちゃん
ここ八丁目でも大雨に備えて側溝の掃除くらいは思っている処へ「ヒキガエルの福ちゃん」が今年ものっそりと来てくれました。昨年より少し小振りになった感じですがあの縞模様からして間違いはなさそうです。軒下の茗荷の林の中に入って居心地を確かめているようです。昨年は3匹も揃って顔を出してくれましたがどうなる事か、取り敢えず深めの大皿を埋め込み水辺を造って様子を見ていますが、気に入ってくれるかどうか?

翌日の大雨で洪水注意報が発令され最近にない高水位に見舞われましたが、ここ春日部市内では「首都圏外郭放水路」の恩恵を受けて何の被害も受けず過ごすことが出来ました。けれども近隣の市町村では被害が見受けられたところもあったそうです。この異常気象(温暖化)は世界的に起きているようでアルプス山脈で大規模な氷河の崩壊が報道にありました。遠い国の事とは思わず日頃から災害に備えることが要と               思います。

 令和4年 文月          八 大