小淵観音 |
元山大師の説明 |
元山大師とは平安時代に活躍した天台宗の偉い僧侶であった良源(りょうげん)のこととして知られており、1月3日が命日であることから、今日では「元三大師」という名で親しまれるようになったと言われています。鬼の姿をして疫病神を追い払った事から元山大師のお札は疫病退散のご利益があると云われました。大変頭がよく、天台宗の総本山である比叡山で様々な功績を収めたと伝えられており、おみくじの起源をつくったのも元三大師だと言われています。
令和5年 皐月 八 大
小淵観音 |
元山大師の説明 |
元山大師とは平安時代に活躍した天台宗の偉い僧侶であった良源(りょうげん)のこととして知られており、1月3日が命日であることから、今日では「元三大師」という名で親しまれるようになったと言われています。鬼の姿をして疫病神を追い払った事から元山大師のお札は疫病退散のご利益があると云われました。大変頭がよく、天台宗の総本山である比叡山で様々な功績を収めたと伝えられており、おみくじの起源をつくったのも元三大師だと言われています。
令和5年 皐月 八 大
今年のヤマホウシ |
我が家の対岸から古利根川超しに見えるヤマホウシは存在感があり、瞬時ではありますが我が世の春を満喫させてくれています。水面には「鳰」の母娘らしい姿が小忙しく纏わりついている姿は子供の頃の自分を思い出させる、こんな風景どこかで見たようで懐かしさを感じられます。
令和5年 皐月 八大
![]() |
とんぶり |
主な産地は秋田県ですが、名前の由来については「ぶりこ(ハタハタの卵)に似た、唐伝来のもの」を意味する、「とうぶりこ(唐ぶりこ、唐鰤子)」が省略され、転化したものとする説が有力のようである。嘗ては秋田、山形などの一部の地域で食用にするにするに過ぎなかったが近年では生産量が増大しているそうです。蒸して水に晒して皮を除き大根おろしや、とろろ芋に和えてたべます。
とんぶりその物に味はないが、大根おろしや納豆などを混ぜてアツアツの白飯にのせて食べると凄く美味しい。シンプルではありますが酒のあとの〆などに最適でありますね。またスパゲッティー等の麺にと合せると醤油やポン酢、ソースなどが絡まって、和風の料理の添え物になってより美味しく食べられます。
![]() |
コキアの紅葉 |
令和4年 神無月 八 大
![]() |
畦道のサフラン |
サフランと云う花はアヤメ科の多年草で、そのめしべを乾燥させた香辛料を云います。イランが原産地と云われますが諸説あるようです。地中海のある島で発掘された壁画には青銅器の時代から栽培がなされたと云われ古い歴史があるようです。耐寒性の秋植えの球根植物で、原産地はヨーロッパ南部地中海沿岸で晩秋に咲き、花を薬用やスパイスとして用いるサフランに対し、クロッカスは早春に咲き観賞用にのみに栽培されるため、花サフランと呼ばれているそうです。球根は球形が4㎝ぐらいで細長く、花の終わった後に茎がよく伸びます。花はほとんど地上すれすれの所に咲き、黄色・白・薄紫・紅紫色・白に藤色の絞りなどがあります。
![]() |
クロッカス |
古い歴史を持つ花で旧約聖書にも記述されており、彼のクレオパトラがサフランを入れた馬乳のお風呂に入っていたなどと云う伝説があるほどです。そんなサフランは料理に鮮やかな黄色とほのかで上品な香りを付けるスパイスとして、パエリア、リゾット、ブイヤベースの他サフランライスなどに使われています。
またサフランは世界一高価なスパイスとしても知られており、高価な物では1グラムが1,600円ぐらいするそうです。そうは言 令和4年 神無月 八 大
ウクライナ問題 ウクライナへの侵攻が始まったが多くの人達はこの戦争は一週間ぐらいで終わってしまうだろうと思われたがナントナント今現在8か月を過ぎようとしています。戦況当初大幅に攻め込まれていた状態で一進一退が続いていましたが米国とEU諸国の軍事支援を受けて盛り返し、攻め込まれていた領土を再び取り戻しにかかり勢いを増している状況です。寧ろここに来てロシア側からの停戦交渉の話が出て来ましたが、戦争前の状態まで押し戻す事が最低ラインです。ここは踏ん張りどころ「ウクライナ頑張れ!」
統一教会問題 宗教の問題は歴史を遡って見るまでもなく大きな問題ですが、基本的に信教の自由という大原則があります。世間話をするにしても相手と場所を選んで行わなければならないと思います。ここに来て思いもよらないマインドコントロールと云う言葉が出て来ていますが難しい問題であります。統一教会の関係者が「自分は統一教会の人間である」ことを隠した状態で一般の人に言葉巧みに勧誘を行い入信を迫っているとのこと。またお布施と称して信じられないような高額な献金をすることによって家庭環境が崩壊されている事が問題となっています。合同結婚式や親子の絶縁にまで至ったことが大きな社会問題となり、ようやく国会でも取り上げられていくようです。
睡眠不足の話 喧々諤々思いの丈を出し合った後は、最近はよく眠れないことが多いけれどどうしたらよい眠りが出来るのか何か良い方法はないのか教えて欲しいとのこと。良い眠りが出来ない人の理由は「何となく夜更かしをしてしまう」「テレビの見過ぎ」「運動不足かもね」と続く。私達高齢者にとって大切な事は「上手に眠る事」だそうです、その為には毎日10,000歩を目標に歩くことだそうです。止むを得ず寝そびれた時には味の素から出ている「グリナ」を服用するとその効果がありましたよ。
人間、歳を重ねても自分の身体の維持のために、肉体は常に現状の更新をし続けているそうです。自分から諦めて身を引いて行くのではなく神仏から与えられた生命を有難く頂戴し感謝の心で遊行の時空を謳歌したいものですね。
令和4年 神無月 八 大
「極楽の余り風」って聞いたことある❔
夏の終りの今頃の暑い時期、山道を歩いて汗だくになった体に、ときおり清々しい涼風が木陰を抜けて吹いてきました。「ああ~こんな素晴らしい風はないネ・・・」と感激!(関西では、昔から「極楽の余り風」と言われているとのことです)群馬県太田市の金山城址を仲間と連れ立ってハイキングを楽しんでいた時、途中休憩は市街地が眺められる石垣の上で小汗をぬぐっていました。ここで風を感じましたが何とも言えない涼風でした。これを「極楽の余り風」或いは「極楽のお裾分け」と云うそうです。
「涼しくて心地いい風だね」 「ホントだね、生き返るようだ」 「こんな風をなんていうか知ってる?」 「この風に名前があるの?」 「あるんだよ!」 「死んだお婆ちゃんが教えてくれたんだけど、極楽の余り風って云うんだって」 「へ~そんな風に云うんだ!!!?
とこんな会話があったように思う。そうすると私の習癖で、『酷暑に吹く清々しい涼風がなぜ余り風なのだろうか?』 と、素朴な疑問が湧いてきた。調べて見ると浄土真宗の祖「親鸞」にたどり着いた。親鸞は、猛火・暴風も、徳風・微風に転じられてゆく、すなわち浄土往生を願えば願う中に極楽からのそよ風が吹くと説く。
![]() |
(くにまるくん) |
第2次大戦終戦に伴う一時休止もありましたが、昭和28年に再開され民間航空再開40周年にあたった平成4年に、国民の親しみやすいネーミングということで、それまでの「航空の日」から「空の日」へ改称されました。この期間には、全国各地の空港等で航空に関する様々な催し物が実施されるようになりました。
![]() |
左側に川久保の藤袴 |
先日の京都新聞にフジバカマと云う植物が絶滅危惧種に指定されており保護の運動が展開されていることが載っていました。何の変哲もない雑草にしか見えない植物でありますが秋の七草の一つに数えられ万葉集にも詠まれていることで保護活動がなされているようです。
藤袴の花の色は藤色を帯び花弁の形が袴のようであることから「藤袴」の名が生まれたと云われているそうです。環境省のレッドデータブックでは準絶滅危惧種に数えられています。フジバカマにはいくつか種類があるようですが、はっきりした区別はなされていません。
![]() |
開花した藤袴 |
花の色が藤色を帯び花弁の形が袴に似ていることから「藤袴」の名が付いたと云われています。「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花」と古くから秋の七草の一つにも数えられております。また源氏物語には「藤袴の巻」があるなど日本人には古くから親しまれてきた草花です。藤袴の花言葉は「あの日を思い出す」「ためらい」「躊躇」などがあります。
令和4年 長月 八 大
![]() |
無花果 |
イチジクは受粉によって子孫を増やさないで、花が受粉を経ずに実、ひいては種になるという単為結実(たんいけつじつ)なのです。そのため、別に花が外に出ている必要はないのです。何故そのような形になったのか不思議ですね? その答えはイチジクの進化にあるそうです。イチジクはぶどうと共に紀元前から栽培されていた果物でエジプトやトルコが原産地だそうですが、そのころに「イチジクコバチ」と云う名前の小さな蜂がイチジクの底部にある小さな穴から入り内側に産卵をしていました。そうすると、孵った幼虫は養分と外敵から身を守れる空間を確保できます。そうして安全に成長できたわけです。
![]() |
イチジクの断面 |
成虫になると、イチジクコバチは花粉をまとって出てきます。そして別のイチジクに自身も産卵します。すると一般的な花のつき方をしなくても内側に咲かせたまま受粉できるので、こうした経緯で現在の花のつき方になっているそうです。昔はハチに花粉を媒介させていましたが現在は先述のように単為結実のため、「食べたらハチがいる」なんてことはありませんのでご安心ください。
旧約聖書の登場人物、アダムとイヴにまつわる話があります。 ある日、蛇にそそのかされ、神の言いつけを破ってイチジクを食べてしまいます。禁断の果実を食べたあと、無垢を失い知恵をつけたアダムとイブは、裸を恥じて局部を隠しますが、それにイチジクの葉を使ったというのです。その姿を見て神はエデンから追放したというので、イチジクの葉が楽園追放の引き金ともいえそうですね。 そのイチジクの葉っぱが恥隠しの意味があったと云われています。
「イチジクの葉」について一言 「恥ずかしいことや嫌なことを、無害なもので隠す」という意味で広く使われています。また、絵画や彫像で、外性器の部分を後から覆い隠すためにイチジクの葉が使われることがあります。これらは聖書の創生期においてアダムとイヴが知恵の樹から禁断の果実を食べた後に、イチジクの葉(fig-leaf)恥ずかしいと思われる物を使って裸体を隠したといわれます。
「無花果(いちじく)」と云う文字は、花を咲かせずに実をつけるように見える ことに由来するそうです。古くから馴染みの深い植物で栄養豊富で美容効果もあることから身近に食用にされて来ました。
令和4年 長月 八 大
![]() |
艶やかな女踊り |
![]() |
街流し |
「町建御墨付文書」とは その昔、米屋少兵衛という人物が加賀藩より「ここに町を作って良いですよ」という許可証「町建御墨付文書」を頂き、八尾に町を作りました。彼は今で言う銀行のような業わいをしており、藩への上納ができない者へ資金を貸し、後日利子をつけて返してもらっていました。しかし景気もだんだん悪くなっていき貸し倒れが増え、ついに八尾を去り水口村というところに移り住みます。その際藩からいただいた「町建御墨付文書」も持って出ました。
数十年経ち、藩は「町建御墨付文書」の返還を要求。しかし少兵衛の子孫はそれに応じませんでした。困った役人は一計を案じ、桜のころ花見だと言ってたくさんの酒や肴、芸人を伴い水口村の米屋を訪ね大宴会を開きます。宴が大盛り上がりをしている間に、こっそりと米屋の蔵から「町建て」の書類を盗み出し、持ち帰りました。無事書類が戻ったことを祝い、役人は三日間昼夜を問わず、にぎやかに歌い踊って町を練り歩いてよろしいというお触れを出しました。それがおわら風の盆の始まりだといわれています。
八尾の町は坂の多い処、道筋にたくさんの灯りが燈されるれ三味線や胡弓の音が鳴り響いており、静寂の中に何となく上品な美しさがあり自分を夢のような時空に合せてくれます。この時期に何度か訪ねたましたがその思いをこのまま残して置きたいものだと思います。
「風の盆恋歌」 歌 石川さゆり 作詞 なかにし礼 作曲 三木たかし
蚊帳の外から花を見る 咲いてはかない酔芙蓉
若い日の美しい 私を抱いて欲しかった しのび逢う恋風の盆
私あなたの腕の中 跳ねてはじけて鮎になる
この命欲しいなら いつでも死んで見せますわ 夜に泣いてる三味の音
生きて添えない二人なら 旅に出ましょう幻の
遅すぎた恋だから 命をかけてくつがえす おわら恋唄道ずれに
小説「風の盆恋歌」のあらすじ 高橋 治 原作を借用
高橋治氏の恋愛小説で、胡弓の哀愁を帯びた響きと優雅な踊りと町の雰囲気が調和した素晴らしいものでした。この小説の主人公は、都築克亮と中出えり子と言う中年の男女です。二人は青春時代に金沢の町で共に過ごし、当時お互いに惹かれながらも、それぞれグループの中の別のパートナーと結婚し、それぞれの人生を歩んで来ました。
この2人が20数年を経て、パリで再開を果たす所からドラマが展開されます。このパリでの再開時に、やはり互いに忘れられない存在である事を強く認識します。この再会からさらに数年を経て、越中八尾の「おわら風の盆」の夜にようやく結ばれます。そして年に3日間だけ、この風の盆に合わせて逢瀬を重ねる事を約束します。
都築はこの3日間の為に八尾に民家を購入し、えり子がやって来るのを待つのです。しかし1年目も2年目もえり子は現れる事はありませんでした。それぞれに家庭や家族があり、それがえり子が簡単に八尾を訪れられない事を感じさせられます。えり子が八尾で待つ都築の所を訪れるには、勇気がいる事だったのでしょう。
そんな中で、えり子はようやく八尾を訪れ、再び都築との逢瀬に身を焦がします。そんな逢瀬での2人の心象風景も繊細に描かれています。しかしそんな逢瀬が可能な年月は長くは続きません。そして次の章では、年に3日だけの大人の恋愛を待ちわびる2人が交わす書簡が綴られます。その中に、それぞれの心象風景が精緻に描かれ、そして何とはなしに破局を予感させるのです。
そしてストーリーは大きく転換し始めます。2人は京都での逢瀬を最後に、しばらく音信普通となり、それぞれの普段の人生を送ります。そしてそんな中で都築は原因不明の病に冒されます。そしてある年の風の盆の日に、えり子の娘が突然訪れ、母は死んだと告げるのです。数日後、えり子を亡くし憔悴する都築に電話がかかって来ます。それは何とえり子からでした。娘は母親の不倫を知り、それにピリオッドを打たせるために嘘をついていたのです。電話口に出た都築は病状が悪化し、息も絶え絶えの状態で、それを感じたえり子は八尾に駆けつけますが・・・・・。
令和4年 葉月 八 大
子供の頃、一年中で何が一番楽しいかと問われると盆と正月ほど、嬉しいことはなかったと思っていました。新しい年を迎える心構えを教えられていたように思っていましたね。 お盆の頃私達が育った田舎では小学校の校庭に若い衆達が丸太たん棒を組み立ててくれた櫓を中心に舞台を作り三日間に亘って盆踊りの競演が行われ町中の皆が一体となって夜通し踊っていました。
![]() |
盆踊り風景 |
歴史的なことで考えると村社会では、娯楽と村の結束を強める役目を果たしてと思われます。そのため全国各地にご当地音頭も多く存在しオリジナルな地域的音頭も増えて行ったそうです。お盆の時期に行われますが宗教的な意味合いは薄く農村や庶民の娯楽として楽しまれていました。明治の頃には夜通し騒ぐことが不評を買って衰退した時期もありましたが、大正の中頃から農村娯楽として再び復活されていったそうです。夏休みの期間中には練習の期間も含めて夜通し行われることも多かったため治安の問題もあったそうです。
その昔、高名な民族学者の講演があった時に聞いた話ですが、盆踊りは性の解放のエネルギーを原動力に性的色彩を帯びるようになっていき、明治時代には風紀を乱すとして警察の取り締まりの対象となり一時は激減していたこともありました。けれども盆踊りは未婚の男女の出会いの場に留まらずに既婚者の交際の場?にもなって昭和の初め頃まで続いたと云われています。その後戦争がありまして・・・時代は大きく変わりましたね。
令和4年 葉月 八 大
![]() |
油蝉 |
油蝉の翅は羽化の際は不透明の白色をしているが時間と共に翅が乾いて行くと共に褐色になる。子供の頃、その間2時間余り飛び立つまでをじっと見続けていたことがありましたね。飛び立つときにオシッコを掛けられたこともありました。また油蝉は夜中にも泣くことがあり煩わしく思ったことがありましたね。何でだろうと考えていた時に思い浮かんだことは、七年間も土の中でその日を待ってわずか1~2週間で他界してしまう儚さではないかなと思えた。
![]() |
つけ麵屋さん |
![]() |
蝉の抜け殻 |
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 芭蕉
蝉しぐれ 一斉に止む 涼しさよ 八大?
令和4年 葉月 八 大
![]() |
無言館 |
しばらく前に訪れたことがあり緑の林の中に見るからに人を寄せ付けないような厳しい感じ受けたのが第一印象でした。こじんまりとした十字架をモチーフにした建物は人を寄せ付けない重い雰囲気を感じてしまうのは何故なんだろう。あの戦争さえなければと・・・こんな思いはなかったんだろうかと述懐してしまう。
無言館命名の由来については、展示された絵画は何も語らず「無言」であるが見る側に多くを語らせるという意味で命名したそうですが、もう一つは見る側の観客もまた展示されている絵画を見て「無言」になるという意味も含んでいると語っております。そういう見方もあるんですね。
![]() |
前山寺未完の三重塔 |
令和4年 葉月 八 大
![]() |
火焔型土器 |
縄文時代と云う名前からしてその総てが縄目の模様が出ているのかと思っていましたがこの土器には見られません。上部の4カ所に鶏の頭のような突起が付いておりますが何を表わしているのか分かりませんが全体が燃え上がる炎を思わせることから火焔型土器と呼ばれているそうです。
またその用途としては発見された場所によっては、火で焦げた部分や吹きこぼれの跡があることから煮炊きする鍋に用いられたものと考えられています。火焔型土器は実用性の他にその形状から見て祭祀的な目的に使われたのではないかと云う考え方もあると云われています。
あの有名な芸術家・岡本太郎は昭和26年に偶然、国立博物館で縄文土器を見て「なんだ、コレは!」叫んだそうです。この土器を見て内面から出て来る美に感動した岡本太郎は民俗学的な視点を越えて、大阪万博の「太陽の塔」などの作品に繋がったのではないかと云われております。
令和4年 葉月 八 大
子供の蛙 |
牛蛙と云われるのは何でかな・・?と思って調べてみました。 体調15㎝前後の大型のカエルで、「ブォー・ブォー」と牛みたいな鳴き声からウシガエルとと名前が付いたと云われます。ヨーロッパでは皮を剥いた後ろ足が美味しいことから古くから食用ガエルとして養殖されていたそ うですが、原産地は北米ロッキー山脈の東部に分布しているそうです。
![]() |
福ちゃんらしき蛙 |
戦後、私達の年代が育ったころでは牛蛙を食用にしていた話がありましたよ。田舎の年寄りたちが田んぼの畦道で頭にカンテラを付け、食用ガエルを火バサミで捕まえて網の袋に入れて帰る姿をよく見かけました。その当時としてはお酒のつまみを兼ねて貴重なたんぱく源であったと聞かされました。 今では浅草の仁丹塔近くに下手物商品を扱う「福ちゃん」と 云う店が営業をしていましたね。
話が大きく横道にそれてしまいましたが、古利根川縁で独特 の「ブォーブォー」と低音の響きが聞こえる事を待ってます。
令和4年 文月 八 大
今年の梅雨入りは平年より一日早く6月の6日でしたが、梅雨明けは何と6月27日と22日も早い梅雨明けが発表されました。そうすると暑い夏が長引くことが予想されましたが、早くも長雨が続いたのでこれは「戻り梅雨」であると・・俳句の季語にはもあるそうですが衣装合わせに苦慮しますね。長引くコロナ禍を心配する我が高齢者の多くは早々と3回目のワクチンを済ませて構えていたところ4回目のワクチン接種の通知がありました。時を同じくして第7波の襲来と云われ、まだまだ緊張感は続きますね
![]() |
今年の福ちゃん |
翌日の大雨で洪水注意報が発令され最近にない高水位に見舞われましたが、ここ春日部市内では「首都圏外郭放水路」の恩恵を受けて何の被害も受けず過ごすことが出来ました。けれども近隣の市町村では被害が見受けられたところもあったそうです。この異常気象(温暖化)は世界的に起きているようでアルプス山脈で大規模な氷河の崩壊が報道にありました。遠い国の事とは思わず日頃から災害に備えることが要と 思います。
令和4年 文月 八 大