出穂水

 出穂水(でほみず)って言葉を聞いたことありますか? あまり聞いたことがない言葉ですが、昨日古利根川沿いの小さな田んぼにポンプで水を汲み上げていた農家のお百姓さんがいました。連日酷暑日が続いていますが「この時季一番大変なことは水の管理なんです」朝夕の水の管理の良しあしによってお米の味が変わるんですと云って話をしてくれました。此の田んぼも今ではスイッチを入れれば水が上がってくるが、昔は水車(みずぐるま)を足で漕いで水を確保していた頃が昭和の初めごろまであったんです。


その水車を踏車
(とうしゃ・ふみぐるま)と呼んでいて、日本においては江戸時代中期以降に普及しておりました。この古利根川の付近でも足踏み揚水機は古くからの農家や古民具の展示場などで見られます。人が車の羽根の上に乗り、羽根の角を歩くことで車を回し、水を押し上げるからくりで使われており、田んぼに入るにも、舟(サッパ舟)で移動していたそうです。今でもその風景は遠くは東南アジアの稲作地域にも見うけられます。    


私達日本の稲作農家にとって一番大切なことは水の管理だそうで、日照りの頃の水争いはその地域の中でも大変な騒動になったことが語り継がれて来ておりました。またお米の品種がコシヒカリをはじめひとめぼれササニシキなど評判の種類が品種改良されて美味しいご飯が食べられますが、何と云っても田んぼの水の管理によって愛情をかけて出来たお米が美味しいと古利根の古老が熱く語ってくれました。水の管理(加減)は一番大切であるとのことです。



 令和2年  文月          八 大


虫の音

 此のところ暫らく暑い日が続いており寝床にスズムシの籠を置きクーラーのお世話になっていましたが、昨夜は久しぶりに気温が少し控えめに感じたので、網戸にして眠りに入りました。 だが、しかし快い感じを予想していたにもかかわらず五月蠅いほどの虫達の奏でる大合奏となってしまいました。

スズムシの優雅な音色に合せるように、ギイッチョン、ガチャガチャ、ジ~ジ~っと・・・一晩中秋の虫たちの競演が続き夢のようなナイトタイムを過ごすことが出来ました。勿論その夜の主役はコンサートマスターである我が家のスズムシ君でありました。こんな夜が来るとは思いませんでした、草むらの演奏者の皆さん有難うございました。都会でのマンション暮らしの人達には恐らく味わえない程の極楽気分でした。

草むらや地上に鳴いている虫の声を文字で表現するのは非常に難しいのですが、鳴き声から察するに、キリギリスがギィ―チョン、カンタンがルルルルッ、ウマオイがスィチョンン クツワムシがガシャガシャ、エンマコオロギがコロ・コロ・コロ、マツムシがピリッ・ピリリッツ、と続きます。聞くところによるとこのカネタタキという虫がいるそうでがチン・チン・チン、と鉦の音に聞こえるそうで、お寺に居るように感じるとか?。

日本人が虫の音を愛でて秋を感じるようになったのは、平安時代だそうです。この頃すでに虫の音を愛でる風習があったことが記録に残されています。鳴き声を楽しむことが貴族の間で流行していたそうです。清少納言の「枕草子」の中には「スズムシ、松虫、キリギリス、はたおり」が登場していますし、紫式部の「源氏物語」のなかにもスズムシや松虫が描かれております。


 令和2年  文月         八 大



地獄の釜の蓋が開く

 私たちが子供の頃「藪入りという言葉が残っており前日の15日はお盆と云う重要な祭日でし

た。そこで奉公先や嫁入り先の用事を済ませ、その翌日の16日が実家の行事に参加ができるように休みが与えられたようです。現在のように定休日がなかった時代に、正月と盆の藪入りは奉公人たちにとっては大変貴重で待ち遠しい日でした。また親元に帰れない者も芝居見物などに出掛け年に二回だけのお休みを楽しんでいた。嬉しいことが重なったとき「盆と正月が一緒に来たよう」と云いますが、昔の奉公人にはこの2つの藪入りは本当に楽しみだったに違いありません。

 今日8月16日には決まって茗荷の葉でくるんだ炭酸饅頭をおやつに食べさせてもらったことを思いだいました、遠くなった昔の話です。何でこんなお呪い(おまじない)のようなことをして・・?と思いながらも食べることの方が先だった。この地方の風習で酷暑に負けないお呪いと疫病除けの意味もあり有難がって食べていましたね。

戦後世の中の労働スタイルが大きく変わって日曜日などの定休日が出来ると藪入りは遠く忘れられて行きましたが藪入りの伝統は正月休みや盆休みの規制として残っていて、最近では大型連休や最近ではコロナ禍と相まってGO-TOキャンペーンと云う言葉まで臨時に拡大して来ていますね。

また「地獄の窯の蓋が開く」云われるこの日は、お盆の時期、霊が里帰りして地獄にいないので地獄番の鬼も休みです。その頃に畑の土に耳をつけると、ゴーッという地熱の沸くような音がするそうで、地獄の窯の蓋が開いて霊が飛び出してくるので、仕事をしてはいけない日とされたそうです。仏教では藪入りの日を「閻魔の賽日」といい「地獄の蓋が開き亡者も責め苦を逃れる日」であり「罪人を責めていた地獄の鬼たちさえもこの日は休むから、人も仕事も休む」と考えられたのでしょう。

令和2年  文月           八 大

 火焔型土器 なんだコレは」

新潟県の山奥であった現在の十日町市の笹山遺跡から1,980年~1,986年にかけて火焔型土器

の発掘調査が行われ教科書に出て来るような形の土器が出て来て、大きく立ち上がる突起が燃え盛る炎のように見えることから命名されました。

日本一の大河である信濃川の流域は、8000年前に大きな気候変動があり一転して雪国となったと云われています。遡る事5,000年程前に何とも奇抜なかっこうの「火焔型土器」が出現したそうです。鶏の頭のような4つの突起があり、縄文土器を代表するものです「なんだコレは!」と叫んだのは岡本太郎でした。火焔型土器の芸術性を発見したその後世界的な評価を得て新潟県では初の国宝に指定されました。

「火焔型土器 6つの秘密」

1 ニワトリだと思ったら実は魚だった?

 いちばんの特徴は4つの大きな「鶏頭冠突起(けいとうかんとっき)」鶏のトサカに似ていますが、この時代・地域に鶏がいた記録がなく、「水面を跳ねる魚」か「4本足の動物」を象ったと云われています。突起には左向きと右向きがあります。

2 逆さまに埋まっていました

 1982年に新潟県十日町市の笹山遺跡から出土。鶏頭冠突起を下にした逆さまの状態で発見され、突起も尻尾も完ぺきな状態だったそうです。

3 人類初の化学製品?

 粘土に鉱物や繊維を混ぜ、低温で焼いて固い器にする。縄文土器は人類が初めて化学変化を応用して作ったものでした。石や骨を削るのと違い、成形途中で形の修正が出来る点も画期的。個性的な造形を産みました。

4 ギザギザの秘密は?

 口縁にノコギリの歯のようなギザギザがあるもの、火焔型土器の特徴。このギザギザが「火焔」の語源となりました。その特徴的なデザインを強調するように、年度のひもで縁取りされている点も見どころです。

5 「縄文」じゃないんです

 縄文土器ですが、縄で文様をつける「縄文」はナシ。胴体の表面は年度のひもを張り付けたような隆線や隆帯と渦巻き文で埋め尽くされています。「トサカとノコギリはあるが縄目がない」のが火焔型土器のスタイルです。

6 実際に煮炊きしてました

 器の内側にオコゲ(炭化物)や変色が見られることから、食物の煮炊きやアク取に使われたことが分かりました。縄文人の主食は木の実。どんぐりやクルミと動物性食材を合わせた料理も作られていたようです。

信濃川は日本で最も長い河川になり長さは367キロメートルです。新潟県と長野県東部を流れる一級河川であり信濃川水系の本流になります。新潟市で日本海に注ぎますが信濃川と呼ばれているのは新潟県のみで長野県の部分は千曲川と呼ばれています。信濃川と呼ばれている部分より千曲川と呼ばれている部分は214キロメートルと60キロメートルほど千曲川の方が長いですが河川法上、千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定してます。


 令和2年   文月          八 


ナツツバキ(シャラの木)

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。」

平家物語の冒頭の部分ですが、猫の額のような私の庭にも植えてあるシャラの木のことだよと教えられていましたが、チョット違うんじゃないかと兼ねがね思っていましたので調査をしてみました。

沙羅双樹とは、二本の沙羅樹という意味で、お釈迦様が最期を迎えるときに選んで横たわった場所が、二本の対になった沙羅樹の下だったことから「沙羅双樹」と呼ばれています。
因みに仏教において三大聖樹と呼ばれているものがありますが、お釈迦様が生まれた場所であった「無憂樹(ムユウジュ)」、お釈迦様が悟りを開いたところにあった「印度菩提樹(インドボダイジュ)」、それにお釈迦様が亡くなったところにあった「沙羅樹(サラジュ、シャラの木)」だそうです。

平家物語に出て来る沙羅双樹は、日本原産で沙羅樹によく似た「ナツツバキ」を代用して読んだものだそうです。そのことから全国各地のお寺の境内にナツツバキが植えられており、シャラの木という名も別名として残っていると云います。

ナツツバキはその名のように夏にツバキに似た真っ白な花を咲かせる樹木で、樹齢を重ねると樹皮が剥がれ落ちて表面がつるつるになりモザイク模様になるのでこれはナツツバキだと分かります。葉と花を見れば花が白いだけでまったく冬に咲く椿と親戚のようですが、決定的な違いがありますそれは、秋にはキレイに紅葉もするから落葉もします。
四季を通じて観賞価値が高く庭木として人気があります。



 令和2年  文月       八 大














宵待草と月見草

 

「待てど暮らせど 来ぬ人を  宵待草の やるせなさ 今宵は月も出ぬそうな」

    「暮れて河原に 星一つ 宵待草の 花の露 更けては風も 泣くそうな」


竹久夢二は数多くの美人画を書いているがその抒情的な作品は大正ロマンを色濃く残しており児童雑誌や詩文の挿絵などにも残っています。また宵待草で思い起こすのは新しもの好きな私の叔父が手廻しで聞かせてくれた蓄音機で聞いた大正浪漫溢れるメロディー私たち世代では今でも頭の奥底に残っているのではないでしょうか。

黄色に咲いているのは「待宵草(まつよいぐさ)」 で原産地は南北アメリカで元々はなかった植物でしたが、戦後~昭和の30年代に繁殖力が強く日本中の空き地に大群落を作ってしまったものです。けれどもその待宵草も今ではご存知の通りセイタカアワダチソウに取って代わられてしまっているのが現状ですすね。

月見草っていう名前は誰でも聞いたことがあると思いますが宵草、宵待草は何だか分かりずらいですよね。花に興味のない人でも、すぐに竹下夢二を思い起こす人がいるでしょう。この月見草という花はマツヨイグサ属に属するメキシコ原産の一年生草本で、江戸時代の末頃に観賞用として日本に入ってきました。ところで、月見草の花は黄色だと思っている人が多いことにビックリですが白なんです。月見草っていうくらいだから、夕方から咲き始めて翌朝には萎んでしまうんだけど、萎む頃には花びらは薄ピンク色に染

まっている。




夢二の「宵待草(よいまちぐさ)」っていう詩は、最初は「待宵草(まつよいぐさ)」と本人の自筆で書かれていたようだけど、語感の良さから夢二本人が途中から「宵待草(よいまちぐさ)」と書き換えたらしいです。でも、それにメロディーがついて大ヒットしたもんだから、「宵待草」という呼び名も大正~昭和の始め頃までは、メジャーになってしまったようです。でも、最近は聞かれなくなりましたが懐かしいですね。

さて、マツヨイグサの仲間には昼咲きのものもあって、その代表格がヒルザキツキミソウと呼ばれるピンクの花を咲かせる宿根草です。一度植えておけば、大した世話をしなくても、初夏から夏にかけて爽やかなピンクの大きな花を咲かせ続けるので、先の園芸ブームの頃から結構人気がありましたから、皆さんの中にも庭に植えている人がおられるでしょう。

名前の由来 夕方を待って咲き始めることから来ているそうです。

花言葉〉 打ち明けられない打ち明けられない恋・無言の恋・自由な心・美人
      うつろな愛・移り気な人・浴後の美人

 令和2年   文月       八 大














桐の話


  春日部市の名産品としてその名を誇れるものとしては、「高級桐ダンス」があります。その言われとして日光東照宮を造った各職人達の中に指物屋と云う人たちが居ました。東照宮を完成させた職人たちが江戸へ戻る途中に立ち寄ってひと稼ぎをしてから江戸へ帰ろうとしてそのまま居ついてしまったのが処が当時の粕壁だったとも言われています。


つい三十年ほど前には西口の踏み切りの近くには数件の桐ダンス屋さんが軒を連ねていたことを思い出しますが、また市内のあちこちに箱屋さんと称しては小細工を商売に成り立っていたことも聞きましたが当時の粕壁は押しも押されない桐ダンスの町でありました。
桐ダンスは湿度が高いと膨張して気密性が高まり湿気を防いでくれることで日本の気候にはぴったりの材木だったと言えますよね。

また昔は嫁入り道具に桐のタンスを持たせるため「女の子が出来たら桐を植える」という習慣がありまして、桐は成長が早く二十年たてば高さ十メートル程度の成木になり加工できるので理にかなっているようです。しかし立派な桐ダンスも
軽量で安価な桐材も瞬くにプラスチック製品にその場を奪われているのが現状です。

五百円玉を手に取ってみれば表に描かれているのは桐の葉と花でありますが、これは内閣総理大臣の紋章としてデザインされた桐であることは皆さんご承知のことと思います。
三本木公園の一角にポケットパークがありますが今は小さな桐の樹ですが成長の早い木ですので、やがて大木になって私たちを見下ろすようになることでしょう。楽しみにしており
ます、頑張ってくださいよ!

 令和2年   文月       八 大







 オキシトシン

 最近、雑誌やテレビなどで取り上げられるようになりました「オキシトシン」という脳内ホルモンの働きについてNHKあさイチでも取り上げられていました。脳の視床下部という場所で産生されるホルモンで「お母さんホルモン」や「愛のホルモン」として知られてきたそうです。オキシトシンとはギリシャ語の語源で「早く生まれる」という意味のことが語源のようで古くから女性の出産や子育てに関連するホルモンとして広く知られるようになったそうです。

新型コロナウイルスの影響で、「ストレスがたまって、もう疲れた!」という人も多いですよね。そこで、“幸せホルモン”や“愛情ホルモン”とも呼ばれる「オキシトシン」に注目!オキシトシンは、ストレスや痛みを和らげたり、血圧を下げたり、ダイエットや美肌にも効果が期待できるそうなんです。ハグやキスなどスキンシップによって分泌されるホルモンとして知られていますが、実はたった一人でも、簡単にオキシトシンを出すことが出来ると云います。

「飼い犬と触れ合うことで、お互いにオキシトシンが分泌される」ことで幸せな気分になり癒され、ストレスが緩和されるという研究論文もあるそうで世界的にも話題になったホルモンです。
その効果は「幸せな気分になる」「脳が癒されストレスが緩和される」「不安や恐怖心が減少する」「他者への信頼の気持ちが増す」「社交的となり人と関わりたいという好奇心が強まる」「学習意欲と記憶力の向上」「感染症予防につながる」・・・とオキシトシンを分泌されることでメチャメチャ幸せな気分を味わせてくれるホルモンです。

オキシトシンはどうやったら出て来るのか? その方法を知れば家族や夫婦関係、他者とのスキンシップや信頼関係に深く関係するそうです。その方法は「スキンシップ、マッサージ、見つめ合う、ハグする、キス、愛撫、性交渉・・?となんてことはないラブラブ&いちゃいちゃな時間を過ごせば、それだけでオキシトシンがどんどん湧き出て来るそうです。

コロナ・コロナで多くの皆さんが気分的に落ち込んでおられる人がいるようですが、オキシトシンを出すことによって自分から気分を変えましょう。感染症が悪いのはそのとおりですがここは一つ自分から進んで自分を変えていくことが最も重要なこと思います。

 令和2年  文月        八 大









 風のテラス


 今年の初め頃、古利根川の八幡橋右岸橋詰めから300ⅿ間ぐらいが住民の提案により「自然観察・親水型遊歩道」として河川敷地内に設けられてきました。まだ手作りの作業が始まったばかりなのでその大部分は背の高い雑草が覆いかぶさっていますが、その空間は子供たちの夢を育むものとなりそうで楽しみが一つ増えました。

スタートラインの近くには「風のテラス」という手作りの看板が目に付いていたが何となく見過ごしていました。改めてじっくりと見つめていると、洋々と流れる古利根川が頼りがいのあるものに見えて来ました。

そこには「子供と家族のための川15か条」の印刷物が「川から学ぶ地域社会づくり指針」として、国土交通省が平成18年に「多自然川づくり」基本方針を示し「河川全体の自然の営みを視野に入れ、地域の暮らしや歴史、文化との調和にも配慮した河川管理」の必要性を提唱している。そんな中で、埼玉県では川の面積の割合が日本一という特性を生かし「水辺再生100プラン」の事業が平成20年から始められていたそうです。

この話を準備しているときに、九州球磨川の大水害ニュ=スが飛び込んできました。毎年のように繰り返される水の
恐ろしさに愕然としています。平常時にはここ古利根川のよ
うな穏やかな流れが、地域に潤いをもたらしていることに感
謝しています。いつまでも「健康で安全な川」である事を願いたいものです。



令和2年  文月        八 大
























 半夏生  (はんげしょう)


 半夏生は農事暦で七十二候であるとともに雑節の一つに数えられています。夏至から数えて11日目にあたる日、もしくはその日から5日間を云います。月日でいうと7月2日頃から7日七夕の頃になります。夏至は毎年同じではありませんので半夏生の期間もそれに合わせて変わります。

 「半夏」とはサトイモ科の「烏柄杓(からすびしゃく)」の別名で、この頃、山道や畑などで生え始めます。烏柄杓は「狐のロウソク」、「蛇の枕」とも呼ばれ名前の通りひょろっとして不思議な形をしています。


どうして半夏生と呼んだのでしょう。
半夏生の半夏は「烏柄杓」という薬草の漢名からきているそうです。ちょうど半夏の生える時期にあたることから半夏生と呼ばれるようになりました。その他に半夏生の花が咲く時期だからというものです。

半夏生は半夏とは全く別な植物で「方白草」と云われている毒草です。7月の初旬から花を咲かせ葉の数枚の一部が表側だけ白くなります。それが、半分化粧しているように見えるところから半化粧と呼ばれるようになった、その後に転じて「半夏生」となったと云われています。

農業が中心だったころの日本において、半夏生は大切な節目の日でもありました。半夏半作とも言われて半夏生の日迄には田植えを済ませその後は田植えをしないと云う風習がありました。それ以降になると秋の収穫が減少すると云われており季節の目安になる日でもありました。作業に一段落つけてから数日間の農休みをとり,餅をついたり,だんご,麦こがし,まんじゅうなどを作って食べる所が多いそうで,ヤマノイモやサバ(鯖)を食べる処もありました。

半夏と半夏生は混同されるが、写真を見ると一目同然です。
 半夏(烏柄杓)とは 半夏に生える頃の植物。
 半夏生は、ドクダミ科の多年草で水辺に生え、臭気があ
 る茎は高さ約80㎝位。葉は長卵形で夏に花穂をつけ、白色
 の小花を密生する。花穂のすぐ下の葉は下半部が白色と
 なり目立つ。片白草(かたしろぐさ)ともいう。 




 令和2年   文月        八 大














ホウオウボク(鳳凰木)

 初夏~秋にかけて鮮かな朱赤色の五弁花を咲かせる マメ科「ホウオウボク(鳳凰木)」の熱帯性落葉高木です。 整った笠形の自然樹形で大きな葉が多数出るので、 樹の下は夏でも涼しく熱帯地方では憩の場になります。 葉はシダに似て涼しげで緑色の葉と、真っ赤な花色との対比が美しい。 花は大きく開花し雄しべと雌しべを突出させ、最盛期には樹冠が鮮緋色で一斉に染まります。 花が散った後に枝からぶら下るように、青く大きな剣状の莢(サヤ、豆果)
がなります。

原産地はマダガスカル島と云われていますが今では台湾やハワイでも多く見られますが、沖縄の石垣島や那覇の国際通りの街路樹として見事に咲いてくれています。成木の樹高は
15Mにもなりシャガランダ、アフリカン・チュウリップ(火炎木)と共に、熱帯三大花木と云われておりその容貌は立派でありますが、そんな大木でも夜になると眠ってしまうという不思議な習性を持った花でもあります。

緋紅色の蝶形な花が印象的な「ホウオウボク」も全てが全てオレンジ色の花を咲かせるわけではなく、その年によって咲くか否か変わりますし、咲くタイミングもバラバラでしかも樹木の大半がオレンジ色に色づくものがあるかと思えば、全くオレンジ色の花が咲かないものもあったりするそうです。でも梅雨時期の那覇市街なら咲いている可能性がとても高く、いろいろ散策すれば必ず鮮やかなオレンジ色の花が見つかります。

花言葉は「臆病な愛」 「内気」「同情」「柔和」「永遠」
「私は恋を疑う」「しめやかな愛」「気品」
大阪では、「咲くやこの花館」の温室で、この木を見る事が出来たかと思います。

  令和2年   文月        八 大  

































 こうもり傘   

     あめあめ♪ふれふれ♪かあさんが♪    じゃのめで♪おむかえ♪うれしいな♪   
                          ぴちぴち♪じゃぶじゃぶ♪    ランランラン♪
蛇の目傘

  童謡「あめふり」で、お母さんが蛇の目傘で迎えに来てくれる様子ですが、私が70年前の小学生時代は当時番傘という時代で紙製で竹の骨で作られたものでした。梅雨の時季どうしても厄介にならなければならないのが傘であります。それでも和傘に対して金属の骨組みの黒い洋傘を「コウモリ傘」という事は子供のころから知っていました。
私達が育った時代、母親が雨の中で迎えに来るようなことはなく濡れ鼠で帰った覚えがありました。



傘とは何ぞや
昔の番傘
「傘」とは雨、雪、などが降水時に体や持ち物を濡らさないために使うほか、夏季の強い日射を避けるために使うことが多い。日光などが体に当たらないように、頭上に広げ差しかざすもので柄をすえて開閉が出来るようにした「さしがさ」に対して「笠」は頭部に直接被って使う用具である。またガーデンパラソルやマーケットパラソルなど携行を目的としない特殊な傘もあり、これらは地面に立てたり吊ったりして用いている。  

日本書紀には百済の聖明王の使者が552年に欽明天皇へ憧幡(旗・天蓋)を献上したことが掛けれている。当初は主に日射を避ける「日傘」として用いていたが、その後日本独自の構造的進化も見られ降水に対して使うことが多くなっていった。中国は古くから天蓋式の傘が発達し日本へは百済を通じて伝来したようです。
蝙蝠
その後江戸時代に竹細工や製紙技術の進歩と共に紙製で竹の骨、竹の柄の和傘が作られ、日傘も同じ時期から一般的になった。ヨーロッパでは傘の使用が一般化したのは 17世紀ごろと云われている

洋傘を「こうもり傘」ともいうが、こうもり傘の語源に関しては、「傘をかぶる」が「こうむる」となり、これを語源とするなどの説もあるが、幕末にペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから生まれたという説が最も有力である。


洋傘の話


貴婦人の日傘
傘が使われ出したのは約4000年ほど前と言われ、エジプトやペルシャなどの彫刻画や壁画に残っている。ギリシャでは祭礼のときに神の威光を表すしるしとして神像の上にかざしていたと云われ天蓋から傘は発達したと云われておりますそのころの傘は開いたままですぼめることはできなかったようで傘が一般的に使われ出したのはギリシャ時代に貴婦人たちが日傘を従者に持たせて歩いている絵が残っているようです。


フランスでは1533年にフィレンツェのメディチ家のカトリーヌ王女がアンリ王子に嫁いだ時に伝えられたと云われています。また17世紀のフランスでは、街中で2階から投げ捨てられる汚物(糞尿)を避けるために女性には傘が必需品だったことが史実と
して云われています。

コウモリ傘
イギリスでは18世紀の頃に現在のものが開発されましたが、当初は太陽から肌を守るために日傘として開発され、雨の日は傘をさす習慣がなく濡れることは苦にしなかったそうです。(当時のイギリスの気候は霧雨程度が多かったようで、紳士が雨の日に傘をさして笑われたととも言われています)けれども今ではその紳士のマネをするようになり次第に雨の日のアイテムになっています。

 雨降りお月さん

「雨降りお月さん雲の影  お嫁に行くときゃ誰とゆく 
   一人で唐傘さしてゆく  唐笠ないときゃ誰と行く
      シャラシャラシャンシャン鈴付けた
         お馬にゆられて  ぬれて行く 」
婦人用雨傘

子供の頃はカラかさ(唐笠)あるいは番傘、和傘でしたが唱歌にも歌われていましたね。


  


  令和2年   水無月       八 大


 今日は父の日だって?

 このところ父の日なんて言われると、私の時代ではどこかむず痒く感じて正面から捉えていませんでしたが、毎年6月の第3日曜日に決まったのは1980年ごろから一般的な行事として始まったと言われています。母の日は1949年5月の第2日曜日に制定されていましたから30年近く遅れて始まったんですね。

仏教で親の恩を10に分けて「父母恩重経」があります。親の大恩十種が説かれています。その内容は概ね母親に関してのような気がします、父親には母親ほど恩を感じる必要はないと大方の人は思いますよね。そのことについて釈迦は「父母の恩の重きこと天の極まりなきがごとし」といわれているように母親も父親も、空が無限に広がっているように、限りのない大恩があると教えられています。

「人々よ。私たちは父と母に、大きな恩があることを知らねばならない。 お母さんが懐胎されたとき、母親も大変ですが父親も実は大変心配している。 なぜなら、私たちがこの世に生を受けたのは過去世の力を因として、父母をとしてのことである。父がいなければ、生まれることはできなかったし、母がいなければ、育つことができなかった」ということです。(父母恩重経)

仏の教えは人間に生まれたときしか聞くことが出来ません、親がなく人間に生まれることができなければ、仏の教えを聞いて迷いの解決をすることもできないので、両親には、大変なご恩があります。人間に生まれてよかったという生命の歓喜を獲て、その無上の喜びからこの身になれたのも、両親が人間に産んでくれたお陰であったと、親の恩を知らされるときには報わずにおれなくなります。
                                        
そのことを釈迦は、
「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く。
   この身今生に度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」
                            (私のお勤めの言葉です)
生まれがたい人間に生まれ、聞き難い仏の教えを聞けた今、絶対の幸福の身になれるところまで、共に聞法精進させて頂きましょう。

 令和2年  水無月       八 













 かたつむりでんでんむし)

 でんでんムシムシかたつむり、お前の頭はどこにある、角だせ槍りだせ頭だせと、小学校の唱歌にも歌われてきましたが、この梅雨の時季に色鮮やかに咲くアジサイ花の葉の裏にくっついているのを沢山見かけましたが、最近我が家の近くでは何故か見かけなくなりました。


かたつむりについての名称は他にデンデンムシ、マイマイ、蝸牛(かぎゅう)などがあり、その語源はいろいろある。

かたつむり は笠つぶり説、潟つぶり説がある。「つぶり」は古語の(つび)海螺)で巻貝を意味する。
デンデンムシ 子供たちが殻から出ろ出ろとはやし立てた「出ん出ん虫」(でん」は出ようの意である説から。
マイマイ はでんでんむしと同じように子供たちが舞え舞えとはやし立てたことに由来するとの説がある。
蝸(かぎゅう)語源はその動作や頭の角がウシを連想させたためとする説があります。

カタツムリが殻から出たらナメクジになるという事はないそうで、殻が大きく壊れてしまうと死んでしまいます。

その昔上野駅の正面に営団地下鉄本社ビルの最上階にハイカラなフランス料理を出しており、エスカルゴを食べる機会がありました。ソムリエの話を聞くと主な生産地はフランス、スペイン、イタリアで養殖が盛んに行われ専用のブドウ畑で寄生虫がつかないように衛生的に管理されている・・云っておりました。当時の私にはもの珍しさが先に立っていただけで美味しいという感覚はありませんでしたよ。私にとっては貴重な体験でしたが。



♯  でんでん虫々 かたつむり     
    お前の目玉は どこにある
     角だせ槍(やり)だせ頭だせ     

♭  でんでん虫々かたつむり
    お前の頭は どこにある
     角だせ槍だせ 目玉だせ

令和2年  水無月       八 大

















 1001匹の家族 が加わる我が家

 昨日の朝、我が家にスズムシが冬眠から覚めてモヤモヤモヤと湧いてきた。その数は1000匹以上?・・と思えるがそれは雲霞の如しと言いますが物凄い数です。こんなにたくさんのスズムシが生まれることの驚きは三年ほどなかったが今回は異常に思えます、コロナからのプレゼントかも知れない。

飼育は非常に簡単で、餌はナスやキュウリを主に与えるが、鰹節や虫の死骸をなどの動物性のタンパク質を与えると、共食いも防げるそうです。プラスチックの水槽で簡単に飼育が出来ます。土を敷いて時々スプレーで湿度を保ってやることが重要です、餌の減り具合を見ながら様子を見ていくと何回か脱皮(7回?)を繰り返し成虫となる。8月の終わりごろからリーンリーンと鳴き始めます。夜は寝床に移動して鈴の音を聴いていると何とも「コンコロモチ」が良くて風流極まりないです。

小泉八雲は虫を愛するのは日本人とギリシャ人のみだと云っていたそうですが、虫の音を聴く文化を持っているのは中国だけではなくヨーロッパなどでも虫の鳴く歌になぞらえた詩や歌があるそうです。繊細な気持ちを持っている民族がいることに愁いを感じています。日本では平安時代から貴族階級の人達が籠に入れて楽しまれていたが、江戸時代中頃より虫売りの手で人工飼育が始まり盛んに一般にも販売もされていたそうです。

1001匹目の家族は毎年現れてくれるカエルさんです。先日紹介した先輩の夫婦カエルは何処かに新居を見つけたらしく暫く会っていません。新人のカエルは大きさが5㎝位で今月になってからアジサイとミョウガの根本あたりを住処にしているらしく、時々散水をするとノコノコ出て来て気持ちがイイのか目を見開いたまま・・・やがて大儀そうに姿を隠します。たくさんの仲間と楽しい気分が味わえるのも幸せなことです。

 令和2年   水無月       八 大
































 
 蟷螂生(かまきりしょうず

 農作業の目安になる七十二候(農事暦)の中にカマキリが出て来るのは何でだろうと、いつも考えていましたが、何年か前に分かりました。それは稲や野菜には手を付けることなく害虫を捕まえてくれるからだろうと思えます。前足が鎌状に変化し、ほかの小動物を捕食する肉食性の昆虫であります。漢字では蟷螂(とうろう)と書くが鎌切(かまきり)です。鎌で切るから鎌切ですよ。

体は前後に細長く、6本ののうち前脚は大半がに変化し多数のがある。頭部は逆三角形で2つの複眼と大顎が発達しており、頭部と胸の境目は柔らかいため頭部だけを広角に動かすことができる。目玉が異様に大きく見え得体の知れない怪獣のようであるが、近寄ってよく見ると何とも可愛らしさも感じられる。毎年のようにデコポンの木に卵を産み付けていたが今年は来てくれなかった。

食生は肉食性でバッタやキリギリス、トンボ、クモ、カエル、トカゲ、ミミズなど捕食するのは生餌に限られ死んで動かないものは食べない。天敵や自身より大きな相手に遭遇した場合には、身を大きく反らして翅を広げ、前足の鎌を大きく振り上げて威嚇体制をとる。全体がもっと大きければその姿は怪獣そのものです。

韓国に「蟷螂の斧(とうろうのおの)」という故事があります。斉の国の君主だった荘公はある時馬車で出かけたが道の真ん中に一匹のカマキリがいて、逃げださず前足をふりあげて馬車に向かってきた。荘公はその勇気を賞して、わざわざ車の向きを変えさせカマキリをよけて通ったと云います。君主が一匹の虫に道を譲ったこの故事は日本に伝来し、カマキリは勇気ある虫とされた。戦国期のには、カマキリの形を取りつけたものがありました。現在の日本では意味が転じて己の無力を知らない無謀さを揶揄する場合に用いられています。

例年ならそろそろ京の都にも毎年恒例の「コンコン・チキチン」と祇園ばやしの音が聞こえて来る筈でしたがコロナ禍のお陰で、あの絢爛豪華な祇園祭も残念なことで今年は中止となりました。「蟷螂山」という山は「蟷螂の斧」の故事を元としたもので、からくり仕掛けで動くカマキリが載っていて人気がありますが、確か昨年は一番くじを引いて長刀鉾の次に巡行に加わっていましたね。
災厄をもたらす疫神を鎮めるために、町中
を練り歩いたことが始まりといわれています。

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 麦 秋 のころ

 麦秋って五月末なのに秋ですか? この秋の意味は麦が実り収穫を迎えるところから麦秋と呼ばれています。二毛作の農家では短い秋を過ごしてもうひと仕事となります。雨の少ない時期でしたがもうすぐそこに梅雨がやって来ます。

前回に晩春についての続きみたいになりますが、やはり小津安二郎監督の名作映画にも「麦秋」のタイトルがあります。年頃の娘を持った家族に縁談を心配をしていたら、立てつづけに結婚話が舞い込んできます。生育の早い麦は手間いらずの孝行娘のようなもの、まさに実りの秋を迎えた娘の複雑な思いを原節子が演じています。小津安二郎と云う人は素晴らしい作品を残してくれましたが監督本人は良縁に恵まれず生涯独身で一生を過ごした。

麦に関する農作業の話
もともと「秋」と云う言葉には穀物が成熟した収穫の時機と云う意味があるようです。江戸時代に季語を解説した書物「滑稽雑段」(こっけいぞうだん)の中にも、「秋とは穀物が成熟する時期であり、麦においては実りの季節である初夏が秋と云える」と云ったような内容の解説がされています。
つまり、初夏は「麦の夏」であり、稲穂が頭を垂れる9~10月ぐらいは「米の秋」と云えるでしょう。米と同様に太古の時代から日本人の生活の中で重要な役割を担ってきた麦には、「麦秋」以外にもさまざまな季語があります。
例えば「麦蒔(むぎまき)」は初冬、麦が強く育つように行う「麦踏(むぎふみ)」は早春、青々と育った様子を表す「青麦(あおむぎ)」は春、「麦扱(むぎこぎ)」「麦刈(むぎかり)」「麦打(むぎうち)」など刈り入れにまつわる言葉は初夏。
さらに、麦が熟するこの時期に降る雨を「麦雨(ばくう)」、収穫の頃に吹くさわやかな風を「麦嵐(むぎあらし)」と云います。季節の移ろいを麦にまつわる言葉とともに感じてはいかがでしょうか。

ここで麦秋と云うと忘れてはいけない言葉に「麦酒(ビール)」があります。これは麦がたわわに実り黄金色の穂をつけ刈り取られ麦芽をアルコール発酵させて皆さんに届くというもので・・・これから先は私から説明することではありません。今では皆さんが日常的に愛飲されている国民的潤滑剤である飲み物です。この話は先々のお楽しみにしたいです。

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