AI革命 (人工知能で私たちの生活が変わる)
TOYOTA Concept-愛i
人工知能搭載 トヨタ愛ⅰ

「完全自動運転車」開発の問題点
 最近AI業界の人の話を聞く機会がありましたそれはビックリすることばかりでしたが、自動車の完全自動化についての現況について簡単に述べてみようと思います。
 今年も東京モーターショーが開催されているが性能が向上しているEV(電気)自動車の他に人間を超える情報分析能力を身に着けたAI技術導入による完全自動運転車が大きな話題になっています。
 先日のニュースではスバルのアイサイト搭載車は事故率が6割減少したと云われる。またシンガポールでは世界初の自動運転タクシーの走行試験が始まり早ければ来年にもサービス開始が目標とか・・。
 コンピュータによる自動車の電子制御は1970年代から始まり最近では車一台に数百個の車載コンピュータが組み込まれていると云われます。自動車メーカーにとってこれからの技術の延長線上に自動運転があると考えられるがトヨタは1990年代後半から研究を進めてきたが完全自動車運転の実用化はまだ先のことである云われていた。
 しかしグーグルが自動運転車の開発を表明すると一気に世の中の流れが変わった。自動運転のためには認知、判断、制御と云った機能が重要である為カメラ・センサー・半導体と云ったアップルやインテル、グーグルなどと云ったIT企業や半導体メーカーが続々と自動車の開発に参入してきている。
 現在のわが国では
レベル2 の段階にあり、テスラとニッサンが100㎞/ℎで自動的にセットが可能である。
レベル3 アウディ(独)は緊急時の対応以外は出来上がっていると云われている。
レベル4 ロボネコヤマトでは地域限定であるが自動化OK,無人で宅配便が可能である。
レベル5 またテスラでは完全自動運転が試作として完成していると云われている。

そこでAI技術の目覚ましい進歩は私たちの生活を変えると云いますが今何が一番の問題なのか聞いたところ何と驚くことに「法律が遅れていてブレーキが掛かっていることだそうです。即ち自動化が先行してしまっていることが問題である」ことだそうです。
                       平成29年10月   八大






「急須」のはなし
 先日古くからの友達から陶器の展覧会の切符を頂いたので覗きに伺った。彼は会社を定年を迎えるとすぐに趣味の陶芸の道に入って「急須(きゅうす)」造りに専念している。
急須の原型は中国で発明され、茶を飲む習慣がある文化圏であるアジアでは古くから使用されている。地方によっては「急尾焼(きびしょ)」とも呼ばれた。
「急須」という呼び名は、中国三国時代の呉の方言で酒を温める器、「急尾焼」は福建の方言で湯を沸かす器のこと云ったらしい。
「急須・急尾焼」は本来中国で湯沸として用いられていたものを茶を出す道具に転用したのは江戸時代の中頃、儒学者の高芙蓉と云う人が広めたようです
湯沸しに用いられるやかんは、漢字では「薬罐」となることからも分かるように、元来は薬湯を煎じ出すための器具である。


 茶を注ぐ道具は取っての位置や有無によって四種類に分類される、本来は急須と呼べるものは横手の物のみと云われていたが今では拡大解釈されているようです。
1 横手(よこで) 注ぎ口を正面に見て右横に取ってがつく。大きく傾けて中身を注ぎきる 
          際にふたを抑えることを含め片手で使いやすい。
2 後手(うしろで)注ぎ口を正面に見て後方に取ってが付く。中国茶や西洋の紅茶のティー
          ポットなどに良く見られる。茶壷をもとにしているといわれる。
3 上手(うわで) 本体上部につく。本体と一体化しているものと、別個に取り付けるものと
          がある。別個に取り付けるものはいわゆる土瓶であり取っては弦という。
4 宝瓶(ほうひん)取ってのない急須のようなもの。泡瓶とも書く。基本的には玉露などを入
          れるときに使用する。紅茶や中国茶では使用しない。


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 余計な一言  朝早く起きられた時には時間に余裕をもって、ゆっくりとお茶をたしなむこと
        も考えては如何ですか。

                       平成29年10月    八大







 
運慶仏師
運慶展
 平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した仏師運慶は日本で一番著名な仏師である。今、国立博物館で運慶展の開催中
 運慶が活躍した平安から鎌倉時代にかけては正に動乱の時代であった。源平の戦いは津々浦々に波及しやがて政権は貴族から武士へと引き継がれて行く。
このような中で運慶は平家の焼き討ちによって灰塵に帰した奈良の東大寺や興福寺の復興に尽力するとともに、東国武士からの依頼を受けて仏像を制作したことでも知られている。この時代世の乱れに呼応して仏像の需要が増したことにより注文が多くなった。これまでの大木が必要な一木造から小木二材以上を組み合せる寄木造工法が定朝によって完成された。いわゆる工房に多数の仏師を集めて一体の佛像を細分化し組み立てることにより能率的に制作することが出来るようになったのである。また寄木造りで頭部は内剥りで空洞になるため内側から目の部分に穴をあけレンズ状の水晶を入れることが出来て、より 本物らしく見える玉眼という技法もこの時生まれた。      

 運慶は生涯に多くの作品を造ったとみられているが運慶作とみられるのは31体が確認されその多くは国宝に指定されている。
 私は今回、展示の中で無著・世親の像は興福寺の北円堂では度々お目に掛かっているが、この展覧会でこんなに身近に見られたことは感激の一語であった。
 運慶は東大寺仁王門に見られるような鎌倉武士に好まれる力強さの表現もさることながら、人々の願いを聞き或いは寄り添い眼に見えない佛の慈悲の心を内面にまで彫りだしたと思われる像も手にしている。
この佛の前に立つと自然に手を合わさずにはいられないものを感じます。
   平成29年10月      八大         無著菩薩立像









 糸瓜(へちま)

 先日久し振りに根岸の子規庵を訪ねる。ガラス窓の外には見事な糸瓜がぶら下がっており、この景色が見たかった。子規庵は俳句の革新者正岡子規が命の炎を燃やし尽くした家です。その功績は俳句・短歌の他日本近代散文の基礎を作ったことで計り知れないものがあると云います。
 長いこと肺結核を患い小さな庭を愛でながら愛用の机に向かい文学の近代化の為に精力的に情報発信し続け句会や歌会を通じて門人たちを育てました。
 移り住んでから8年後、明治三十五年九月十九日「糸瓜咲いて 痰のつまりし 佛かな」の句を絶筆として僅か35歳の生涯を終えた。
 子規の周りには友人であった夏目漱石、森鴎外をはじめ門人であった高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤佐千夫、長塚節・・・当代の文学界を牽引した人たちが訪れていた。
 それから100年以上も経った今でも下町の何の変哲もない小さな空間であるが人々は何かを求めてやって来るという。それは病に伏せながらも太く短く生きた正岡子規その人の生き様が人を引き付けるからであろう。
 我が家の庭にも遠い昔、へちまを夏の陽除けのため植えたところ大きなものが採れて「たわし」や「へちま水」を作ったことがあった。その「へちまコロン」を顔に塗っていた娘も今は小母さんになっている。 
   平成29年10月    八大




棗(なつめ)の木

 朝の散歩コースの古利根川沿いに、この時期になると遊歩道に長さ2㎝位の茶色い実が沢山落ちている。拾い上げてよく見るとそれは棗である、見上げると青い実、赤い実が枝に沢山実っており熟れた順に落ちて来たらしい。
 原産地は中国から西アジアにかけてであるらしく日本への渡来は奈良時代前かららしいが和名では夏に入って芽が出ることから夏芽と云ってたらしい。

 乾燥させて砂糖漬けを菓子にしたり韓国では薬膳料理で知
られるサムゲタンの材料に使われるほか欧米ではキャンデイの材料になっている。
 棗の木と云うとすぐに思い出すのは日露戦争で日本が勝利し旅順降伏文書の調印が行われた処が、旅順郊外の水師営で民家の庭に棗の木があり当時の軍歌にも歌われていたことである。今でも記念館として残されており乃木大将とステッセル将軍を中心に11人が記念写真に写されているが、全員が帯刀をしている写真が世界中に配信されると「さすが武士道の国、日本は敗戦国の軍人にもサーベルを持たせての撮影を許している」との評価で日本が再評価されたことが当時の新聞に載っていたと祖父から聞きました。
 古い話で歳が分かると云われるでしょうが、世界に一等国として君臨していた象徴であり貧しいながらも子供心に思いが残っていました。
              



 
                平成29年9月   八大

軍歌 「水師営の会見」
 佐々木信綱作詞・岡野貞一作曲 /文部省唱歌

旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 
水師営の会見場
乃木大将と会見の 処はいずこ水師営 

庭に一本棗の木 弾丸あともいちじるく 
くずれ残る民家に 今ぞ相見る二将軍

乃木大将はおごそかに 御めぐみ深き 
大君の 大詔伝うれば 彼かしこみて謝しまつる


昨日の敵は今日の友 語る言葉も打ち解けて 
我は称えつかの防備 彼は称えつ我が武勇

かたち正して言い出でぬ 此の方面の戦闘に 
乃木大将とステッセル将軍ほか
二子を失い給いつる 閣下の心如何にぞと

二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり 
これぞ武門の面目と 大将答え力あり


この後も続きがありますが・・・。





























未来心の丘

瀬戸内しまなみ海道 2

未来心の丘

 瀬戸内海に浮かぶ生口島は島ごと美術館と云われてあちこちにアート作品が並んでいるがその最たるものは未来心の丘でしょう。
 こちらの方では西の日光と囃されているようですが耕三寺の込み入った古代寺院らしき建物を突き抜けて坂道を上ると小高い丘の入り口にたどり着く、何か異様に感じながら坂道を行くと突然に視界が開けて一瞬方向感覚を疑う。
 こんなところにまるで氷の世界かと見まごう程の白い大理石群、ギリシャのサントリーニ島の景色を模したと云われるのが未来心の丘で、チョット異国っぽい雰囲気は若者にも人気があります。小生も7~8年ぐらい前に偶然訪れたことがありましたが3,000トンを超える大理石をギリシャから運んで積み上げた白の台地が青い雲にマッチして素晴らしい、また来られたことに懐かしさを感じます。登ってみるとてっぺんの塔の下には、涼しい風が吹いていてエーゲ海のような景色に溶け込むような気分でした。
 敷地内のカフェ・クオーレには窓からの景色を見ていると、ここが日本かと疑いたくなります。何でこんなことをしたんだろうと考えることは無用のようです、景色の中に入ってその気分を味わうことが一番ですよ。
 解説書をよく見ると仏法護法の十二天を表していると云われるオブジェは抹香臭みが全くなく正に地中海の島にいるようです。その作者は 杭谷一東(くいやかずと)氏75歳、広島県出身の彫刻家で日展には8回連続入選されその後にイタリアを拠点に活躍され数々の国際賞を受賞されているそうです。
 日本に居ながらにして地中海の気分を味わえること間違いなし、一度ご照覧あれ。
              平成29年9月   八大









重陽の節句 散歩


 今日、9月9日は「重陽の節句」です。その昔中国では月と日の重なるのを忌み嫌い、その日は邪気を払って神を迎える習慣がありました。それがいつしか節句と呼ばれ日本にも定着していきました。中国では奇数が陽数にあたり「九」はその最大数なので九月九日は「重陽」と呼ばれている。旧暦でしたので人々が菊花酒を飲んで霊力を戴き不老長寿を願ったそうです。
 日本では平安時代の宮中の行事として邪気を払い長寿を願う為に菊を浮かべた酒を飲む風習があったと云われておりました。また庶民の世界でも秋の収穫に対しての感謝祭として「お九日(おくんち)」が行われておりますが、とくに有名な「長崎くんち」は毎年10月7日から9日まで賑やかに行われていますね。

 夜明け前、寝室に置くスズムシの鳴き声で目を覚ます。今日は天候が良くなるから暫く忘れていた散歩に出掛けなさいと云われているような気がして朝霞の中をタオルを首に掛け歩きだした。  

 いつものコース古利根川沿いを歩き始め公園橋を過ぎると黒い団子のようなものが沢山落ちていた。よく見ると大木は根回り2ⅿ位ありいくつか拾い集めると30個ほどの橡の実だった。いつも見慣れているはずなのに改めて見ると樹齢は100年以上の栃の木である。




 子供の頃食べ物の無かったころ橡の実を粉にしたものにメリケン粉を混ぜてすいとんと称して食べせさせられたことがあったけれど渋くてまずかったのを覚えています。今では栃餅として地方の観光土産として売られていますが、あの頃のショックが頭に残り触手が湧くことはありません。


 児童公園に足を踏み入れると小さな四阿があり傘屋根の下に雨だれの跡があった。平城京復元の際表土を剥ぐと多くの礎石の他に建物の軒先を示す雨だれ筋が残っていたという。これによって柱の位置と屋根の大きさが分かったというがこれを見て十分に納得できました。


 あるお宅では通りがかりの私にハイビスカスの鉢に真っ赤な花を咲かせてお接待をしてくれているようでいつも感謝申し上げております。

 散歩をしていると普段は見過ごしていて気ずかなかったことがまるで新しいことを発見したように感じられることがあります。残念ながらこの時期、菊の花は見かけることは出来ませんでした。

菊の宴の代わりに今夜は出回り始めた新秋刀魚を肴にして邪気払いをやる事にしたいと思っております。

                                                         
             平成29年9月9日   八大
















瀬戸内しまなみ海道 1

そのルートは広島県の尾道を出ると、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島を通り愛媛県の今治に抜ける海の架け橋でつながっていることはご存知のこと。全長約60Kmであるがサイクリングをしているグループが多いこと、景色を楽しみながらそれぞれの体力に合わせて楽しんでいる姿を見ると平和な国だと実感します。

 因島水軍城 (因島)

村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれたと云われる。

村上水軍の活動は文献上、最も古い記録として南北朝時代に能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。
戦国時代には因島村上氏が毛利氏に、来島村上氏は毛利氏の支援する河野氏に、能島村上氏は河野氏と友好関係を持ってそれぞれの地で勢力を張っていたという。



平山郁夫美術館 (生口島)

平山郁夫画伯は生口島瀬戸田で生まれ、瀬戸内の青い海や緑の島々に囲まれた自然の中で子供時代を過ごしており「私の原点は瀬戸内の風土である」と語っていた。広島で15歳の時に原爆の被爆者となるも東京美術学校を卒業と同時に東京芸大に奉職、学長で退官し再度芸大の学長を勤め文化勲章を受章する。平成21年永眠(満79歳)
誰もが知っているシルクロードシリーズの他、少年時代の絵画や資料がゆったりとしたスペースに展示されており平山芸術を鑑賞することが出来ました。












 




                                                       平成29年 9月   八大









浄土寺・阿弥陀堂

兵庫県小野市にある浄土寺・阿弥陀堂は大仏様建築のお堂と阿弥陀三尊像は仏師快慶の見事な大作であり共に国宝であり圧巻であります。

浄土寺は、奈良時代の僧・行基の建てた寺院があったとも言われるが、実質的な開山は東大寺大仏・大仏殿の鎌倉復興に尽力した重源である。治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺、興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった。重源は大仏再建費用の募金活動の拠点として、伊賀(三重県)、周防(山口県)など日本の七か所に東大寺の別所を造ったが元々この地が東大寺領であったため「播磨別所」として造られたのが浄土寺である。

私はこの境内の配置を見て、その後建てられた本堂(薬師堂)との間に池を配し西に阿弥陀堂・東に薬師堂が建っていたと想像しました。この配置は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味しており此岸から彼岸へであると思います。

人づてに聞いては居りましたが重源は三度も宋に渡りましたが最新の建築技法も学んでおりどっしりとした大仏様という様式を取り入れ、何と云っても東向きに立っている阿弥陀三尊が西の彼方の極楽浄土から、たなびく雲に乗って衆生を迎えに来た来迎の姿がそのまま表れていることです。特に春秋の夕暮れ時の西日は堂内に差し込み朱塗りの堂内に乱反射して金色の阿弥陀が浮かび上がってくるように見えるそうです。



 今、夕日の射し込む門限まで阿弥陀様の正面の床に座って時代を遡って仏にすがったであろう人々の思いを感じながら瞑想にふけりました。それは自分にとって誠に素晴らしい時間でありました。 合掌
                                        平成29年9月   八大






カイツブリ(鳰)

―遂に一個の卵は孵らなかった。―


先ごろから古利根川の私の散歩道であるユリノキ橋の澱みの中にカイツブリの浮巣があり小さな二羽の雛が時々親鳥の羽の下から首を出しいている姿を見つけました。親鳥はジッと構えており全くその動きはなく五分十分そのままでよく目を凝らさないと鳥がいる事には気づきません。
今朝改めて見るとどうやら一個の卵をあきらめた様子が伺えられる。
沢山いるカイツブリ・ウオッチャーに聞くところによると先月の末頃、二羽のカイツブリが澱みの中に浮巣を作ってから約3週間じっと我慢の親で居て送り盆の16日に二羽の雛が生まれたらしい。しかし浮巣の中にはまだ一個の卵が残っており一生懸命に孵そうとして無念無想の構えで親としての責任を果たそうとしていた。今日で10日間なんとも心打たれる風景でしたがよく見るとを卵がありませんでした。やっと諦めたようでした。



カイツブリの生息地は日本各地にありその姿は一年中見られており、親になっても25㎝位の小さなもので、奈良時代には「にほどり」と称されていた。漢字の「鳰」も水に入る鳥を意味する和製漢字と云われている。 キリリリリとの鳴き声
 琵琶湖は古来からカイツブリが多かったからか「鳰海(におのうみ)」の別名があり滋賀県の県鳥に制定されているそうです。

その生態は最近変わって来てヨシの林の中から人の目に触れるところでも浮巣を作っていることが目立ってきたと、野鳥の研究者が話している。それは都市化された環境の中でも逞しく生きていくことで否が応でも生活をしていかなければならない所に来ているのかもしれない。駅前に住みついているムクドリを見ているとあちらの方が一枚上ですがね。
                    
                                             平成29年8月27日   八大

































獺(カワウソ)
獺の絵 小川芋銭


38年ぶりの大発見
先頃、長崎県の対島で38年ぶりに絶滅されたという獺の姿がツシマヤマネコの調査のためのカメラにとらえられて世紀の大発見と賑わいを見せており、これからの調査が待ち遠しいところです。
今では動物園でしか見られないですが明治時代までは日本各地に棲息していたが乱獲や開発によって生息数が激減したため昭和40年には特別天然記念物に指定されている。昭和54年に目撃がされて以来であり日本人にとっては身近な存在であり河童伝説の原型になったと考えられている。

獺祭(だっさい)
獺祭の絵 川端龍子
獺(カワウソ)は捕らえた魚を川岸に並べる習性があり、その様子が先祖供養の祭儀になぞらえたことから云われたことで出典は中国古代、儒教の経典で四書五経の礼記(らいき)からである。
また、七十二候の一つ(雨水初候)で、立春末候の魚上氷の後、雨水次候の鴻雁来の前にあたる。
礼記の「東風凍を解き、蟄虫は始めて振く。魚冰に上り、獺魚を祭り、鴻雁来る」。春になってカワウソが漁をはじめ魚を捕らえることを言った。俳句の季語にもなっている。
 

大吟醸酒「獺祭」
大吟醸酒 獺祭
昨年開催された伊勢志摩サミットで安倍総理のおもてなしとして各国首脳に、山口県の酒「獺祭」が並んで好評だったことがあった。日本酒の販売量が落ち込んでいる近年、岩国市周東町獺越2167-4の旭酒造(株)がベテランの杜氏を入れないで開発製造された、磨き度23%に磨かれた大吟醸酒が振舞われ好評を博し、現在でも大変な人気で品薄となり価格も一升瓶で¥30,000を超えている。
桜井社長によると昔からその地域に獺に関する言い伝えが残っており地名にも獺越があることから、昭和23年に創業しそこに酒工場を建てて、「獺祭」という名前にしたという。
さてさてその飲みごこちは一言では言い表せないもので、日本酒と云うより上品なワインそのものでその器もぐい飲みではなくスマートなワイングラスが似合います、まあ一度お試しあれ。
               平成29年8月  八大
  






 シリア難民少女の三行詩  


バナ・アラベトちゃん
爆弾が今、雨のように降っています。
 みんなハエのように死んでいきます。
 ちゃんと息ができない。
               バナ

  私たちは今家を失い、軽いけがをしました。
昨日から寝ていません、お腹がすきました。
生きたい、死にたくない
     バナ
アレッポの惨状

 
みなさん、アレッポを助けてください。
空爆を受けなければ、
私はきょうも生き延びることができます。
                
               バナ


 先ごろ米誌タイムは「ネット上で最も影響力のある25人」を発表しましたが、シリア内戦の激戦地だったアレッポの惨状を発信し続けた8歳の少女バナちゃんが選ばれた。選考理由は「ジャーナリストが近づけなかった場所から、内戦の恐ろしさを伝えた」としている。
 その惨状を母親とともにツイッターで発信し続けた。一時は命が危ぶまれたバナ・アラベドちゃんだが去年12月にトルコに逃れ、いまも投稿を続けているという。
 その投稿先はシリアのアサド大統領、ロシアのプーチン大統領やアメリカのトランプ大統領にまで及んでいるのに・・・!!

 シリアの混乱した内戦は、このところIS・イスラム国の崩壊が現実味を帯びてきているものの政府軍と反政府軍の戦いは近隣諸国を巻き込んで続いており終結には至ってはいない。
どうして一刻も早く平和を取り戻すことが出来ないのか、それは陰に大国の思惑が見え隠れしており終息への道は程遠いようだ。
 この三行詩に胸を打たれる人は多いと思われる、是非ともこの報道を機にバナ・アラベトちゃんの嘆きに答えて頂きたいものである。

                                        
                      平成29年8月  八大