春日部にも剣豪がいた



春日部に剣豪がいた

春日部市有形文化財の楼門(仁王門) 時は幕末、武州多摩出身の近藤勇や土方歳三が新選組で活躍していた頃、春日部にも剣豪がいました。その名は逸見思道軒(へんみしどうけん)と云い甲州武田氏の末裔で武士から帰農して現在の春日部市藤塚で代々名主を務めていました。

思道軒は幼少のころから剣術を好み、真似事をして遊んでいたと云われていますが、長じて越谷の新道無念流中村道場、次いで久喜の同流宗家戸賀崎道場で本格的に剣術を学んでいたと言われています。免許皆伝を得た後、関東各地で武者修行に励み、郷里である藤塚に道場を構えました。農事に精を出すかたわら近在の商家や農家の子弟に剣術を指導し、一時は門弟の数は三百人を超えて隆盛を極めたと伝えられています。

その頃に小淵観音院に「逸見思道軒の奉納額」が二十年ぐらい前までは飾られていたことを記憶していますが、雨風による損傷が激しく音読不良のようでした。その後に
調査したところ内容が分かったということです。

江戸時代の後半には、打ち続く飢饉などの影響で無宿
物や博徒などが横行するようになり社会不安が広がり
ました。特に天領や旗本知行地が散在する関東では、大名領に比べて統治が緩く治安が悪化していました。武蔵の国では大名領はごく限られており、大半は天領と旗本知行地で、春日部の区域では天領、岩槻藩領、寺領、旗本知行地が複雑に入り込んでいたそうです。
こうした社会情勢を反映して、十八世紀後半ごろから冨農層の間で自衛手段として剣術に対する関心が高まっていたそうです。

しばらく前から旧家の古老から三本木公園の近くに思道軒の碑があることは聞いていましたが市道の際に堂々とした顕彰碑が建っているのを見つけました。家並みを改めて見返ると通りの向こうから竹刀の響きが
聞こえてくるようにも感じた。の地にも立派な偉
人が居られたことに考えを新たにしました。

令和二年   睦月          八 大












チバニアン ?

 チバニアンの地を訪ねて千葉県の養老川渓谷に行ったのは昨年の春であった。もみじの頃には多くの観光客が紅葉狩りを楽しむ観光客が多いそうですがこの時期は看板はあるものの静かな山里でした。近くの看板に 養老川流域田淵の地磁気逆転地層 (国指定天然記念物)があった。

今朝(1/17)のニュースで国際地質科学連合の理事会で約77万4千年前~約12万6千年前の地層「千葉セクション」が示す地質時代の名称が「チバニアン」に決定したとの発表があった。地質時代の区分を決める「国際標準模式地」(GSSP)日本の地名が認定されたのは初めてである。チバニアンとは「千葉の時代」を意味する。
今後は世界で72カ所目のGSSPとして、「ジュラ紀」「白亜紀」などと同様、地球の地質時代の名称として使用されるという。


地層のでき方 この一帯の地層は、水深数百メートルで形成された海底堆積物が大規模な地殻変動によって隆起して陸地となり、それが養老川の浸食によって露頭地層として現れたもので泥や砂が固まって岩石化したもので比較的柔らかいものです。
地質年代区分の境界線にあたる 地球の歴史46億年のうち比較的新しい約77万年の更新世前紀と中期の地質年代境界にあたるそうです。この年代の海底堆積層が陸上でみられるのは世界的にも極めて珍しいことだそうです。
地磁気逆転の証拠 地磁気は過去に何度も逆転を繰り返しているそうでこの地層中の鉱物を分析した結果、およそ77万年前に最後に逆転した痕跡が確認できている。地磁気逆転のメカニズムや逆転によって自然環境に与える影響など、まだ分かってないことが多いためこの地層には、将来の科学研究の重要な鍵が含まれているようです。
白尾火山灰層 養老川沿いの露頭には、約77万年前の古期御嶽山が噴火した時の火山灰が見られます。露頭付近の地名にちなんで白尾火山灰層と呼ばれています。堆積の厚さは2~3cmですが、上下の砂泥質の地層とは容易に識別でき、地質年代区分境界を視覚的に分かりやすく示す指標となっています。
海と陸の化石 この地層中には、海中の有孔虫化石・貝化石(軟体動物などが海底を這った跡)・生痕化石・陸上の花粉化石、などたくさん含まれているため、それらを分析することで当時の自然環境の移り変わりを知ることが出来るそうです。

写真でもわかる通り岩盤は滑りやすく手すりにつかまって降りていくと不安定この上ない。地質調査段階の痕跡が残っており、ここで77万年前に地球の南北の磁場(地磁気)が逆転した時期があり地球史上最後に逆転した時代とされている。
世の中には不思議なことがあるんですね、南北の磁気が逆転したことも不思議ですがそんなことが今の時代に証明が出来るなんて考えると目が回りそうですね。これからはこの地が世界のチバニアンとして賑わいが増すでしょう。

 令和二年  睦月         八 大  









 
 
 





















 新国立競技場 レガシーの裏に見えないものあり

 新しくできた国立競技場の周りをうろついてきました。改めて見ると大きいですね6万人が収容できると云うが欲を言うともう少し競技場周囲に余裕が取れなかったのかなと私は思った。当日はラグビーの試合があったので新設なった会場を一目見ようと、お客さんの姿で大変な賑わいを見せていた。


先日テレビのニュースで東京オリンピックの開催が200日を切ったと報道されていたので国民の目からもその注目度の高さが伺えるようだった。中でもチケットの予約に対する人気状況の一位はサッカーでその後は、開会式、体操競技、陸上競技、野球、水泳の順に続くらしい。そんな中でマラソンの会場が急遽北海道に行ってしまったのには、賛否両論があるとはいえ小池知事の言動にも注目が集まってもいた。

ここでオリンピックに水を差すつもりはないが掛かる費用について一言苦言を表したい。先月の暮れに大会組織委員会からの開催経費の総額が発表されました。「一兆3900億円」が事実上の上限となっていたその額は何と「3兆円超」となり余りにも大きな開きがあったことにびっくり仰天しました。一瞬耳を疑った人が多いと思います。
親方日の丸でこの際イケイケドンドンで後は知らないと云うことにならないことを危惧するのは私の老化現象なのでしょうか。

組織委員会の話や新聞等の話を聞くと、オリンピックのレガシー(遺産)の確保であると言うが、オリンピックのレガシーとは何ぞやと・・・?
オリンピックは、単に競技大会を開催し成功することだけが目的ではなく、開催によって、次世代に何を残すか、何が残せるのか、という理念と戦略が求められる事は充分に分かりますが・・・。

けれども当初予算を2倍以上も膨らんでしまうということについての説明は年末のどさくさに紛れ込ませてその声は途中で霞んでしまっている。政府は常にプライマリーバランスが大切だ、国債の赤字は1200兆円を超えている現状については何の手も打つことが出来ない事はあまりにも無責任ではないかと思いますが皆さんは如何思いますか。2012年に開催されたロンドンオリンピックの事例に見習うべきではないかと思う。

 令和二年  睦月         八 大














 生死一如 (キッチンとトイレ)

 昔からよく「生と死」は台所と便所のようなものと例えられていたのを聞いたことがありました。 台所は一家が集まって楽しい食事をし団欒をする楽しいところで陽の場すが、便所は一人で寂しく居る陰の場所です。一軒の家に台所と便所があることでいつも安心して生活が出来ることは当たり前のことと思っており、多くの人達はどうすれば明るく楽しく生きていけるかと云うことだけを考えています。


 一方では死ぬのは苦しくて暗くて恐ろしい事だから見ないように考えないようにしている人たちが多いように思います。ましてや便所の有難さなんては考えたこともなかったですよね。しかし私たちも生まれたからには必ず死ななければならないことは宿命です。どんなに死にたくないと云ってもそれを避けることは出来ません。

 人は一日一日間違いなく死に向かっています、100%確実に死ななければならないのに死んだらどうなるか分からず真っ暗な闇の状態では明るい生き方は出来ないでしょう。どれだけ死を忘れていたとしても、死を自覚するようになると「自分の一生は何だったんだろう」と思うようになりスピリチアルペインに襲われます。それは人生最大の問題を解決していなかったからであります。

「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉があります。死を見つめることが生を見つめることでいつ死んでも我が人生に悔いなしと云うような身になって初めて大安心大満足の明るい人生がを送ることが出来るというのが生死一如というそうです。明るく楽しく今を生きるには、必ずやってくる死の問題を解決してこそ今が輝くと云われます。仏教では死を見ないようにしてゴマカス必要はないと云っております。

 令和二年    睦月       八 大



 出雲大社 雲太・和二・京三」

 出雲大社は正式名称を「いずものおおやしろ」と言い、ご祭神は大国主の大神と云います。式内社(名神大社)で出雲国一之宮で旧社格は官幣大社、神社本庁の別表神社である。
また明治維新に伴う近代社格制度下においては唯一の「大社」を名乗る神社であった。

『日本書紀』には、国譲りの代償として、高天原の側が大国主命に対し、壮大な宮殿を造って与えた事が書いてありますが、これが出雲大社の始まりと記されている。いわゆる国譲りの神話ですが、その創建についての年代については明らかではありません。
 けれども、『出雲国風土記』には杵築大社(きつきたいしゃ)が載っていまして、大国主命のために、大勢の神々が集まって宮を杵築いたという伝えがありますので、少なくとも8世紀には、大社(おおやしろ)と呼ばれ、大きな社殿が建てられていたことが伺えます。

 平安時代中ごろの言い伝えでは、「雲太、和二、京三」という大きな社がありますが、その中でも出雲大社がもっとも大きく、次いで東大寺大仏殿、その次が京都御所大極殿の順でありますと。出雲大社本殿の高さは、16丈(48,48m)と云う壮大な建物であったろうと考えられます。更に遡ること上古の神代には32丈(おおよ96ḿ)であったと云う伝承があり、それを裏付ける金輪造営図の他、平成12年の調査の際3本一組の巨大な柱根(宇豆柱)が発掘され、巨大な神殿の存在が裏付けされました。これが現在と同じ8丈(24,24m)の高さに縮小されたのは、鎌倉時代の中頃からであるといわれています。現在の本殿(国宝)は延享元年(1,744)造営されたもので
あると言う。
 本殿は大社造りの代表で、屋根は切妻造り、妻入りで、内部は心御柱(しんのみはしら)を中心に田の字型に仕切られ、神座は向かって右から左へ向いている。屋根にそびえる千木(ちぎ)は外削(そとそぎ)で、3本の勝男木(かつおぎ)の長さは5,4mと巨大なものであります。

 出雲大社には、多くの祭礼がありますが中でも神在祭(かみありさい)は御忌祭(おいみまつり)ともいわれ、旧暦10月11日から17日まで、全国の神々が出雲大社に参集され、会議をされるとの伝承に基づいた祭りが今でも受け継がれております。その前日の10日の夜、海の彼方から来る神々を迎えるため、稲佐(いなさ)の浜で神迎(かみむか)えの神事が行われ、神の使いである龍蛇(りゅうじゃ)を曲物(まげもの)に載せて本殿に納める。神々は境内左右にある十九社に宿り、上宮(かみのみや)において神議されるのであります。出雲大社を出発した神々は、佐太神社に移って再び会議をされることになる。従ってこの時期には全国各地におられていた神様は不在になっているのですよ・・。
出雲大社はその壮大な建物や、伝統的な神事等はやはり神話の国出雲の代表的存在であります。

 令和2年  睦月         八 大  




 







 太田南畝(蜀山人)狂歌師

この当時の狂歌や洒落本などは、読んでいくと風刺とその薬味が効いており楽しくて愉快になりますね。40年もの昔に出会った「ノミの狂歌」は何度読み返しても、軽妙洒脱と云うか滑稽でつい思い返して一人でにっこり頷いてしまいます。

蜀山人が多摩の河原の小屋で酒を飲んでいた自作の
 朝もよし昼もなほよし晩もよしその合ひ合ひにチョイチョイとよし
を口ずさみながらご機嫌。そのときノミが一匹盃に飛び込んだ。そこで一首
 盃に飛び込むノミも飲み仲間酒飲みなれば殺されもせず
の即吟となる。盃の中のノミがすかさず返し歌としゃれて
 飲みに来たおれをひねりて殺すなよのみ逃げはせぬ晩にきてさす
と詠んだことに作家で精神科医のなだいなだ氏は狂歌に魅せられたという。

太田南畝
太田南畝(おおたなんぼ)寛延2年(1749年)~文政6年(1823年)の天明期を代表する文人・狂歌師であり御家人でありました
当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代であり、南畝は時流に乗ったとも言えるが、南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風であり、これが当時の知識人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなって行きました。
松平定信により田沼政治の重商主義の否定と緊縮財政、風紀取締りにより幕府財政の安定化を目指し、寛政の改革が始まると田沼寄りの幕臣たちは賄賂政治の下手人として粛清されていった。幸いに南畝は咎められなかったものの風評が絶えなかった。そんな時に政治を批判する庶民の文化として狂歌が大流行しました

「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」
上野公園の「蜀山人の碑}
が庶民に受け、その作者は南畝であると疑われましたが南畝はこれを否定します。事実であれば、幕臣として取り返しのつかないことになるところでした。
その後、享和元年(1801年)には大坂銅座出役として大坂に赴き、銅を「蜀山居士」とも呼んだことから、「蜀山人の号を使い始めています。
 
文政6年(1823)、登城の道での転倒が元で南畝は75歳で世を去る。
辞世の句は、
「今までは人のことだと思うたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」とも 
「生き過ぎて七十五年食ひつぶし 限りしられぬ天地の恩」ともいわれます。
 当時を代表する文人でありながら、幕臣としてもきちんと務めを果たした南畝でした。

気になった狂歌
欲深き人の心と降る雪は 積もるにつけて道を和するる
白河の清きに魚もすみかねて もとのにごりし田沼恋しき
上からは明治だなどというけれど 治明(おさまるめい)と下からは読む
わが禁酒破れ衣となりにけり さしてもらおうついでもらおう
世の中は色ととがなり どうぞ敵にめぐりあいたい
世の中はいつも月夜にのめし さてまた申し金のほしさよ
今さらに何か惜しまむ神武より 二千年来暮れてゆく年

令和元年   12月末        八 大









 ジャネーの法則 年をとるほど1年が短く感じる理由

 この時期の挨拶に、いやぁ一年って早いね。あっという間だね。と云うセリフをあちこちで聞かれます。年を取るほど時間が早く経つように感じている人、言われてみればなんとなくそう感じている人が多くおられます。少し時間はかかりましたが纏めてみました。こう云った現象を「ジャネーの法則」と呼ぶそうです。

ジャネーの法則は、19世紀のフランスの哲学者、ポール・ジャネが考案し、甥の心理学者ピエール・ジャネーが著作して紹介した法則で「主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象」を心理学的に解明した。
易しく言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する。(年齢に反比例する)。例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとってのⅠ年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。単純に言うと、50歳の1年は50年分の1年 < 5歳の1年は5年分の1年であります。
そんなことがウィキペディの中に書いてありました。

「時間の長さは、思い出や記憶の濃さによって変わる。」
個人差はあるけれど、5歳の子供の頃と言えば毎日が新鮮であった。見るもの、触るもの、やること、成すこと、すべてが初めての経験や出来事の連続である。
それらの1つ1つが、強烈な思い出や記憶となって心に刻まれる年頃です。
一方、50歳の大人はどうかというと、社会というものを一通り経験、理解し、新鮮さや驚きに出会う機会は一般的には目減りしてしまう。
思い出や記憶に残る出来事が少ないうえに、過去の類似体験と混同、上書きされてしまう。
もちろん、その際には個人差は5歳の子供以上に大きいとは思います。

ここで、ジャネーの法則を振り返ると…
50歳の1年は50年分の1年 < 5歳の1年は5年分の1年と考えましたが、「現在進行形で」考えると少しばかり見方が変わってきます。
  今日、5歳になったばかりの子供。
  今日、50歳になったばかりの大人。

普段、1日を長く感じがちなのは、何気に後者の男性のような気がしますよね。
子供がよく言う「もっと遊びたい」や「もう帰らなきゃいけないの?」と。
この時、子供は、時間の経過を早いと感じているはずです。
大人がよく言う「まだこんな時間かよ」や「この会議なげ~な」みたいな。
この時、大人は、時間の経過を遅いと感じているはず。

要するに、その場の時間の経過自体は、単調だったり退屈な生活を送っている人の方が遅くも長くも感じるはずですね。

改めて言うと、ジャネーの法則は、「主観的に記憶される年月の長さ」を指したものだ。
いやぁ1年って早いね、あっという間だね。とは言っても、いやぁ今年も一年早そうだな、とは言いませんからね。ただ、このセリフは言わずものがである・・・。
今年も単調だったな~、今年も退屈だったな~、と云う心理的側面が隠れているとも取れますのであまり人前で連発しない方がいいかもしれませんね。

50歳になっても70歳になっても毎日が新鮮で、毎年一年を振り返った際に充実感や満足感をしっかりした実感を持つこと。また常に新しい経験を持つことで感動不足にならないよう心がけること。そんな生活を送っていれば年齢に関係なく、時間は平等に流れています。自戒の念を込めて言うとそんな大人になりたいものです。
〔ジャネーの法則 参考〕              

令和元年  12月         八 大









 神明貝塚と牡蠣

 春日部市の西親野井にある縄文時代後期の神明貝塚(馬蹄形貝塚)が2020年に国の史跡に指定されることを聞いていました。先日、神明貝塚に関するシンポジュウムがあり覗いてみると「3800年前の縄文人の食文化」と題しての話でしたが興味あることもありました。発掘された中には魚類としては、イワシ、クロダイ、スズキ、フグ、ドジョウ、コイなどがありましたが陸上の動物の骨として鹿、猪、野兎なども発見されていました。何としても驚きは縄文人の人骨が3体発見されておりましので今後の研究成果が待たれます。

 貝塚ですから大量の貝殻を調べていくとその大部分はシジミです。今から6000年~5500年前には地球規模の温暖化により海面が3~4m上昇し春日部のこの地は奥東京湾と呼ばれる海だったそうです。やがて海面は徐々に下がりその海岸線は草加市付近まで南下したと推定されています。その頃この地に縄文人が住み着いて生活が始まり結果的に神明貝塚が出来上がったと考えらるそうです。

 神明貝塚付近は海水と淡水がまじりあう吃水域が広がっていた為、定住する人たちが多かったらしい、積みあがった貝殻の大部分はヤマトシジミでしたが、ハマグリ、バイガイ、牡蠣などが採取されていたようです。

 季節は今、牡蠣のシーズンです海のミルクと云われ称される牡蠣が美味しい季節になりました。鍋で良し焼いて良しフライで良し、生牡蛎でなおさらOKです。
 Rの付かない五月から八月にかけて牡蠣の産卵期にあたるので食用には適しないとも云われていますが、美味しい牡蠣のシーズンに入りました、さあ食べに行きましょう。

  令和元年 12月         八大















 錦 鯉 (泳ぐ宝石)

 先日、錦鯉の里と云われる十日町を訪れました。越後平野でも稲刈りが終わり農家の皆さんも一段落し、これから村の仲間と連れ立って湯治に行くような話をしてました。この地方の人達もこの時期が一年中で一番リラックスした楽しい日々が送れるということで多くの村人たちが寄り添って近くの湯治場に出掛けたそうです。最近はライフスタイルが変わって湯治という言葉もあまり聞かれなくなりましたね。

 錦鯉とは色や班紋があり観賞用に飼育している鯉の総称ですが、平成16年9月の新潟県中越地震のでは大変な災害を受けました。マスコミを通じてご存知の通り牛を救助するためヘリコプターで吊り上げたり、養殖場が崩壊したため大量の錦鯉を避難させたり大変なことがありました。その後は新潟県復興のシンボルとして観賞用の錦鯉が見直されているそいうです。

 錦鯉が初めて出現したのは江戸時代の文化文政の時代、現在の新潟県の山間部(主に小千谷・山古志・魚沼周辺)において食用として飼われていた鯉の中に突然変異で色のついた変わり鯉が現れたのが始まりだそうです。その後何代も交配が加えられ現在のような美しい錦鯉へと移り変わったそうです。でも一説には原産地はペルシャ地方と考えられて、今から一千年も前に中国から日本に渡来したとも云われています。

 色については当初は「色鯉」「花鯉」「模様鯉」などと呼ばれていたが第二次世界大戦中の時局にそぐわないということで「錦鯉」となったと云われています。今では日本だけでなく世界中での評価も高く愛好家も多くNisikigoi>としの地位を確立いているそうです。

 鯉の愛好家は今では世界中に広がっており、その美しい錦鯉は体形、色彩、斑紋の三つが基本に評価されますが人気のある物には一匹で数百万円を超える物もあるそうです。
愛鯉家の皆さんからはその姿を見て「泳ぐ宝石」とも評価されています。 

 令和元年  11月          八 大






インディアン・サマー?


インディアンとサマーの組み合わせなんて、私はあまり聞いたことはなかったけれど、どんな意味があったんでしょう?

 北米(ニューイングランド)における晩秋から初冬にかけて風が弱く穏やかで暖かい日が続く、11月から12月の初め頃の時期を云うそうで現在では英語を話す各国でも用いられ英和辞典でも、日本の「小春日和(こはるびより)」として引用されています
 
 人の人生や時代が落ち着いてきた晩年の頃、穏やかで落ち着いた生活の続く時期と云ことですネ。ネイティブアメリカン(先住民)たちは冬に向けて秋に狩りをして暖かい日が続くと動物たちは活発になるので苦労せずして狩りが出来、収穫物を貯蔵する作業もあり何かと忙しい時期でもあります。また植民者間では植民地をめぐる争いが行われており、奪われて土地を取り返すために襲撃が多くなった時期に当てはめて、インデアン・サマーとよ呼ぶようになったとも云われていたそうです。

 日本では古くから冬の季語にもなっていますが、おおよそ11月ごろより12月の初旬ごろの時期で晩秋から初冬にかけての頃に見られる暖かな晴天を小春日和と云って愛される季節です。田んぼの稲刈りも終わり神様に捧げる新嘗祭も済んでから、疲れをとるため仲間や家族同士が一年の疲れをとるためにのんびりと近くの湯治場に行く人たちも多くおりました。自分に対する癒しであり年に一度の贅沢な日々であります。

 こんな話になると私が子供の頃、近所のおばあちゃんたちが縁側に出てお茶をすすりながら世間話を楽しみ漬物を自慢している姿が思い起こされます。そばには猫がけだるそうに欠伸をくりかえしている貧しいけれど平和な暮らしが蘇ってくるように感じられますよね。

 令和元年   11月        八 








        


















 天使の梯子

太陽への梯子
今月のよく晴れた空の下、古利根川の岸辺に遊んでいる水鳥を眺めているとき、まぶしいほどの光を感じた。見上げると太陽に繋がるように太陽への梯子が掛かっているように見えた。

 私が一瞬思えたことは、我が日本国の太陽神である天照大御神が登り階段を降ろして、光の階段を登って来なさいと私を招いているように感じた。圧倒され呆然として佇むことしかできなかった。

 これは日本の神話に出てくる皇室の祖神・日本国の総氏神・太陽の神格化した神、天照が光の梯子を降ろして何かを告げようとしたのか・・・自問自答するも、全くその先には進むことが出来なかった。その間思考が止まって何ともスピリチアルな現象に包まれた不思議な時間でした。

天使の梯子・東京
 天使の梯子とは画家レンブラントが旧約聖書創世期に由来する。この名称はヤコブが夢の中で雲の切れ間からさす光のような様子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。

 そのことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになったもので、この光りの光線を好んで描いたことからレンブラント光線というそうです。 宗教的な神々しさを表現したものでその後の多くの画家にも好まれて描かれていることはご承知の通りです。





 令和元年  11月    八 大












 大嘗祭

 大嘗祭とは天皇が即位後初めて行う新嘗祭を云う。その年に新たに収穫された稲の初穂を天皇自ら祖神天照大神をはじめ天地のよろずの神々に差し上げる一代一度の大礼であります。祭りに用いられる新穀はあらかじめ卜定(ぼくじょう)された悠紀、主基の国から奉られ祭りの日の夜、天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿(東方の祭場)、主基殿(西方の祭場)で、これを神に供え、自らも食する。即位後必ず行われるから践祚大嘗祭といい、一世一度の新嘗祭であるから大新嘗祭とも云う。儀式は即位の礼が七月以前ならその年で、八月以後ならば翌年で大嘗祭の日に行う。
 天武天皇の2年(673年)から後土御門天皇の即位(1467年)後に起こった応仁の乱の以後しばらく中絶していたが、東山天皇の時(1683年)から再興された。その後、中御門天皇の時(1710年)大嘗祭は行われず中止となり、桜町天皇の時(1738年)復興がなされ現在に至っている。大嘗祭を、おおにえのまつりとも云われる。


大嘗宮の造営中
 大嘗宮とは大嘗祭を行う祭祀の場所をいう。この場所は大嘗祭のたびに造営され、斎行された後は壊され奉焼される。古くから造営場所は朝堂院の前庭であった。祭りの10日前にに木材と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えて5日間で全ての殿舎を造営し、祭りの3日前に竣工していたという。後に大嘗祭宮の規模は大正、昭和、の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるためといった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数か月かけて造営しているそうです。古来から茅葺の屋根も諸事情もあり見た目にも簡素になっております。
大嘗宮(11月8日)

 令和元年  11月    八 大 


















 一生懸命と中今

 一生懸命
 誰でも使う言葉に一生懸命という言葉がありますが、一生とは産まれてから死ぬまでの間のことで、終生とか生涯ということであるので人間が一心に生きることを指しますが、元来は一所懸命ということであり、一つの所又は一つになることであります。そしてその一つの事柄に対して命がけで取り組むことであり、一心に目標の為に頑張ることであります。人は人生の目標に向かって一つ一つのハードルをを乗り越える。その一つ一つが一生懸命に繋がるのだと思います。

 中今
 江戸中期の書物「葉隠」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉があります。それは死ぬまで頑張れということではなく「死を想え」そして「今を生きろ」たった一度しかない人生後悔するのではなく、失敗や負けることを恐れず苦難や挫折を受け入れるという前向きな発想のことであります。

神道の教えの中に、今に集中して今に生きることで自ずと道が開けるとあります。私たちは中今(なかいま)に生きているとも云います。「中今」とは今この一瞬ということであります。広辞苑には過去と未来の真ん中の今とあります。遠い無限の過去から遠い未来に至る間としての現在とあります。

 と云うことは過去があって現在があり、現在が又未来を築くのであります。その真っ只中が今なのです。であるならば、この一瞬をしっかり捉えて自分に忠実にとらえて生きたいものです。その一瞬一瞬が後先をを考え単なる今ではなく「中今」となるのです。

 人生には迷いもあるし、ためらいもあります。しかし迷っているうちに、ためらっているうちにも時は過ぎて行くのであります。いったん決めたらそれに従ってその目的を達成させるために一所懸命その「中今」を無駄にしないことです。その努力がやがて自信につながり、目標達成につながるのだと思います。

  令和元年  10月            八 大












ベンケイソウ

 先日、園芸市場に出掛けた際何となくほっこりとした肉厚の葉で頬紅を付けたような、ベンケイソウに出会った。そう云えば案外身近なところでこの多肉植物は見かけていましたが改めて見つめているとほっこり感がありますね。

サボテンもその種類の一つですが多肉質の葉および茎を持ち水分を多く貯蔵できるそうで、あまり手のかからない植物なので、その分布は世界中に広がっているそうです。

 常緑の多年草でカネノナルキ(金のなる木)のように茎が木質化しているものもある。カランコエやヒダカミセバヤなどもこ
の科に属します。古利根川沿いの所どころ
にイワベンケイやホソバイベンケイが青々
と育っているところもあります。

 花言葉は「穏やかな」「信じて従う」「機転が利く」という意味で随分おしとやかで賢そうな名前になっているので探ってみると、その由来が面白いよ。

 武蔵坊弁慶の逸話から出来ている。
弁慶と云えば義経の家来ですが勧進帳でお馴染みの安宅関の場面で、弁慶一行が山伏姿で通り抜けようとするが関守から山伏は通行まかりならぬと厳命される。
 けれどもとっさの判断で機転を利かせ、たまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、淀みなく朗々と読み上げて疑いを晴らそうとするシーンがあります。このことから弁慶は機転が利くという花言葉を戴いたと言われる。
 一度歌舞伎座でその勧進帳を見られると粗筋だけでなく芸の細かさや主従関係が理解できるので楽しいことこの上なしです。


 令和元年    10月        八 大













 
 寒 露 (秋の虫と秋鯖)


寒露,二十四節気,暦
寒露とは字のごとく、朝露も冷え始めることから寒露と云います。
 この時期中国では陽精の雀が秋めいて涼しくなり、陰気になってゆく海に入って蛤(陰精)になり、菊の花は黄色く咲き誇る時期と云われ秋の陰気さが深みを増していく中で、自然が静かな美しさを醸すと云われています。(二十四節気の17節)

 コオロギ(蟋蟀)かキリギリス(螽斯)か、このところ虫の音がか細くなってきましたが我が家のスズムシ(鈴虫)もようやくおとなしくなってきております。虫かごを覗くと現在三匹が声を失ってヨロヨロと動きも緩慢になって時の来るのを待っているようです。
 キリギリスは別名を機織り虫と呼ばれますがその由来は鳴く声がギーッチョン・ギーッチョンと機織りのように聞こえるからとのこと。秋の夜長に家の草むらに近づいてきて明るさや暖かさに惹かれたからなのか軒下にこっそりと忍び込んでくる姿は何と微笑ましくさえ思えます。

 今が旬の「鯖」の人気は衰えを知らないそうで、先日の消費税率の引き上げ間地かの店先ではスーパーの籠一杯いに買い込んだ缶詰を重そうに買い込んでいるお年寄りがいた。みそ煮・塩焼き・お刺身・・と脂の載ったこの時期の鯖は味わい深いもがありますね。国産のマサバは貴重でお店に並ぶのはその多くがタイセイヨウ鯖だそうです。
 青魚の王様と呼ばれるほどで脂の載りは栄養豊富、鯖の脂は血液の流れをサラサラにしてくれる効果があるとのことで人気があるそうです。けれども足が速い(傷みやすい)ので、青光している新鮮なものを選ぶことが大切だといわれました。

 令和元年   10月      八 大 










 
 人生の四分法

 最近の厚労省の調査によると日本人の平均寿命は男性が81,25歳、女性が87,32歳となっており、やがて人生100年の時代がそこまで来ています。

 世の中ではいろいろな区分法があると思いますが、四分法の区切りでいきますと方角の東西南北・季節の春夏秋冬・物事の進み具合の起承転結などなど沢山あります。古代インドでは四住期という考え方もあり例えば人生百年と考えると、生まれてからの25年間を学生期(がくしょうき)その後の25年間の50歳迄を家住期(かじゅうき)その後の25年間の75歳迄を林住期(りんじゅうき)その先の100年迄を遊行期(ゆぎょうき)となります。

 それぞれの期間でいうと学生期は青少年時代で心身を鍛え学習し体験を積み、家住期は就職し、結婚をし家庭を作り子供を育てる、これまでの人生の成長の期です。林住期は人生の黄金期でもありますがそれまでの若いうちから計画を立て夢を実現させるように心がけておくことが大切であったと今に思っています。今の私は四分法の最終段階の遊行期に入りました。日常生活から解放された今、自由に生き遊びの感覚で精神的に放浪する真の生きがいを探す旅に出ようとしています。

「虹」の画像検索結果 吉田兼好は語る「死は前よりしも来たらず、かねてより後ろに迫れり」と、すなわち背後からポンと背中をたたかれて愕然とするのが人間であるという。遊行期の75歳に入った今、余禄の期間をどう生きるのかが、寿命の延びた私たちが後輩たちに伝えていかねばならないと考えています。

 人間は何のために働いてきたのか、目的が生きるために働いてきたというならばそれは間違いであると言いたい。人間が働くことは手段であり目的はその先にあると思う。林住期を過ぎてもその事に気ずかず黙々と働いている人を見ると、それぞれに言い分はあると思いますが人生のおまけにはしたくないものですね。

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 今年も「おくんち」が始まった

 九州北部では、秋祭を「くんち」と呼びました。いわゆる収穫祭ですが、その内容には地域性や歴史が重なり、それぞれ独自性があります。その中で特に有名な「長崎くんち」「博多おくんち」「唐津くんち」を「三大くんち(九州三大秋祭)」として紹介されています。

長崎くんち(ながさきくんち)


長崎くんちの「龍踊」
名高い「長崎くんち」は、毎年10月の7・8・9日に長崎市の諏訪神社の秋季大祭で行われる。見どころは、各町の奉納踊りには、有名な「龍踊(じゃおどり)」や「鯨の潮吹き」「御朱印船」「阿蘭陀万歳」などがあります。
祭(くんち)の始まりは江戸時代の寛永年間、二人の遊女が諏訪神社に舞を奉納したことと言われています。その後、年々盛んになっていき、さらに長崎という土地柄から、中国や南蛮文化の影響を受けました。

博多おくんち(はかたおくんち)


祭がある「櫛田神社」
「博多おくんち」は、博多で1200年以上の由緒がある櫛田神社の秋の例祭です。かつては収穫を祝う新嘗祭(にいなめさい)でしたが、昭和28年より、名称を変更して新
たに祭礼を行うようになったそうです。     神輿渡御 「櫛田神社」
10月22・23・24日に牛車に引かれた神輿渡御、獅子頭、稚児行列の他五穀豊穣市や相撲大会などが催される他ミス福岡に選ばれた女性がオープンカーに乗ってブラスバンドと共に現れるパレードもあり賑やかで
あります。また新鮮な魚や旬の野
菜なども販売されるそうです。

唐津くんち


巨大な曳き山 
写真提供:佐賀県観光連盟 くんち4_JALAN_160804毎年11月2・3・4日に唐津神社で開催される例祭「唐津くんち」は、掛け声とともに曳山が駆け抜ける勇壮な祭として知られています。その特徴はなんといっても獅子。漆塗りの獅子頭を被って舞う「カブカブ獅子」の奉納や、大きな赤獅子・青獅子を乗せた曳山の巡行で知られています。「唐津くんち」は江戸時代に始まったと考えられていますが、独特の「獅子」は文政年間に、奉納したものが曳山行事の原点と伝えられています。今では14基の曳山があり、「唐津くんち」の曳山行事として国指定重要無形文化財となっています。


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「即位の礼正殿の儀」

皇位継承の重要儀式でこの秋に相次いで行われます。
1022日に195カ国の代表らを招き陛下が内外に即位を宣言する「即位の礼正殿の儀。
1114日夕から翌日未明には、天皇が一代で一度だけ望む大掛かりな神事、大嘗祭が古式ゆかしく行われる。

即位の礼正殿の儀とは、即位した天皇が日本国の内外に即位を宣明する儀式で諸外国における戴冠式にあたるものです。

平安絵巻そのままに皇位継承の中心儀式は国の儀式として「即位の礼正殿の儀」として皇居・宮殿の一番高い正殿「松の間」で平安絵巻そのままに繰り広げられる。衣冠束帯の正装で、高御座(たかみくら)に上り即位を宣言しお言葉を述べられる。高御座は天皇の玉座を意味し平安時代の即位式から使われています。また十二単姿の皇后さまは隣の一回り小さな御頂台(みちょうだい)に入られ他の成人皇族方も平安相続姿で勢ぞろいする。

また参加者は招待国が増えたため195か国、内外の代表者は約2500人に上り色とりどりののぼりが建てられ太刀や弓などを持った古式装束の宮内庁職員らが並ぶそうです。
陛下のお言葉に続いて安倍首相のお祝いの寿詞(よごと)を述べた後、万歳の音頭を取り、参列者が万歳を三唱する。

 約30分の儀式の後、両陛下は洋装に着替え、皇居から住まいの赤坂御所まで47㎞をオープンカーに乗り、お披露目のパレードを行う、これも「祝賀御列の儀」に入ります。
       
      高御座 と 御頂台
    
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