タイの仏教美術展で
  〔上座部仏教と大乗仏教との違い〕

今、上野の国立博物館で「タイの仏教美術と王権」についての国際シンポジウムと展覧会があるので訪ねてみた。
「微笑みの国タイ」の国宝クラスのきらびやかな展示物は現地での感動があったがワット・スワット仏堂の大扉と釈迦像がここに展示されるとは思いもよらなかったのでビックリでした。タイ王室儀礼に見られる日本刀の展示と解説には、我が国との600年にわたる交流の歴史があった事を改めて思い起こされました。
 同じ仏教国であるタイですが、釈迦の教えを厳格に守っている上座部仏教に対して大乗仏教の私達との違いを改めて知ることが出来ました。
 釈迦生前の仏教においては出家者に対しての戒律は定められていたが、釈迦入滅後仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域も出てきた。例えば食生活の違いで托鉢での食事時間の問題や食べ物に代わる金銭や日常品等を受けた場合、その扱いはサンガ(教団)によって解釈に違いが出てきたがそれぞれ源典を支持するもの、修正するものに分かれてきた。時代の流れもあるがあくまでも厳正に遵守する上座部グループと修正を支持するグループによって大衆部(大乗)に分かれていったと云われている。

 上座部仏教は、自己の厳しい修行を積んだ僧侶だけが悟りを開き救われ一般の人たちは救われません。上座とは教団内で尊敬される比丘のことで長老とも漢訳される。以前には小乗仏教とも云われていましたが乗り物に例えると小さな乗り物となり、大乗仏教側から付けられた差別用語になると云われて現在では上座部と改められています。

 大乗仏教側は小乗仏教では修業をした人だけしか救われず一般の人々は救われないことになってしまう。しかし釈迦はすべての人々を救いたかったはずであるという思想のもとに修正誕生したのが大乗仏教です。大きな乗り物ですべての人々を救うことを目的にしてます。日本に伝えられた仏教は大乗仏教を基本にしています。

         
          
  
タイ王国の日本刀



               平成29年7月  八大  








天領の地 日田

 今月4日から降り続いた九州北部豪雨災害は福岡、大分で大変な被害をもたらしました。
咸宜園
 昨年日田市を訪れる機会がありました。山々に囲まれた盆地の中央を筑後川の支流になる三隈川が流れ、江戸後期の儒学者広瀬淡窓の私塾・咸宜園に多くの若者が集まり街が栄えた結果文化的な雰囲気が色濃く残っております。街筋の地名と云い言葉を交わした人々との会話の中にも小京都を感じさせる雰囲気がありました。
 この関東の地からは大分県の日田市を良く知る人は少ないと思いますが、江戸時代には幕府の直接管理する天領として九州では交通の要衝でもあり西国郡代が設置され多いに栄えた所でありました。
 街の名産の日田杉は筏を組んで河流しを輸送手段としていたそうで街の経済を富ませ豊かな文化と富は人口を吸い寄せ日田が「小京都」とも「水郷」とも呼ばれたそうです。
 ここでは儒教の影響もあり言葉を漢語読みする遺風は至るところにあるそうで、水郷をすいきょう、舟遊びをゆうせん、日田をひた、などと京言葉に近い感じを受けます。
 けれどもこの数日の災には集中豪雨、濁流、大災害が連呼されております、この街に濁音は全く似合わない。
古くから云われていた坂東太郎・筑紫次郎・吉野三郎と日本三大暴れ川として番付にあった事を忘れてはいけなかった。
 「咸宜園」           
日本最大規模の私塾で「ことごとくよろしく」とはすべてのことがよろしいとの意。淡窓は門下生一人一人の意思や個性を尊重する教育理念を塾名とした。
江戸後期から明治30年までの80年間に全国から入門者が約4800名に及んだと云われています。
 現在は水戸の「後楽園」と足利の「足利学校」と協力して日本の教育遺産として世界遺産に登録準備中との事です。
追 新しい話として岡山県備前市の閑谷学校が加わりました。


咸宜園概要


                                         

                                             


         


              平成29年7月  八大












二本松城址・戒石銘碑

 福島県二本松市にある二本松城址は日本100名城の一つで別名霞が城とも呼ばれ国の史跡に指定されている。

 城の入り口には二本松藩五代藩主丹羽高寛が家臣の儒学者の献策により享保の飢饉の後、財政に苦しんだころ藩政改革と綱紀粛正の指針として刻ませた「戒石銘碑」があります。
 その碑文は「爾棒爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」(なんじがぼうなんじがろく たみのあぶらたみのあぶら
げみんしいたげられやすし じょうてんあなどりがたし)とある、この城の武士たちは登城や下城に際し必ずやこの碑を見たことであろう。
 その内容は、お前達の月給は給料は民百姓の汗だよ脂だよ、百姓が働いて米を作りそのコメを武士は棒禄として領主から戴いているのである。武士は己が非生産の者であることを片時も忘れず、自分達は百姓の労苦によって給料を得、生かされているのだということを常に考えなくてはならないと訓えているのである。
 下民は虐げ易くも、上天は欺き易し。武士共よ考え違いをするな、百姓や町人は身分として低い者であるから、虐めたりバカにしたりしてはならない。そんなことをしたら天がその行いを許すまい。天を欺くことは出来ないことを心得よ。
 儒教の精神そのもの、なんと厳しい訓えであろうか。
この四行の武士に対する訓えを戦前の政治家の多くは扁額にして座右の銘としていたとのこと。
 選挙の時だけ言葉巧みに演説し国民を一時的にごまかすことが仮に出来ても天を欺くことは出来ないぞと云っている。
私はこの話を30年ぐらい前に足立区から出た孤高の庶民派代議士、鯨岡兵助先生から訓えを聞いたことがあった。
今日は東京都議会議員の選挙だ!
          平成29年7月2日   八大







半夏生とたこ焼き
(はんげしょう)
半夏生
 日本の農事暦では一年を24等分し、その節目節目に名前が付けられていて「二十四節気」と呼ばれています。有名なところは春分・夏至・秋分・冬至があります。                                       
 それを更に三分割して、より季節の移り変わりを表現する言葉として「雑節」があります。節分や八十八夜なども該当しますが半夏生は雑節の一つで梅雨の終わり頃を指す言葉です。
 農家にとって半夏生は畑仕事や田植えを終わらせる目安となり、その後数日間は体を休める習わしがありました。
カラスビシャク
この時期に烏柄杓(カラスビシャク)別名半夏という漢方薬の原料にもなっている植物が生える時なので「半夏生」と呼ばれているそうです。
又それとは別に湿地に咲く「片白草」別名「半夏生」「半化粧」と云われる葉っぱの一部が白く咲く時期だからとの説もあります。
半夏生
暦的には夏至から数えて11日目と云いますので今年は7月2日~7日間位が半夏生の時季になります。
 面白い風習がありましてこの時期に北陸地方や西日本方面では鯖や蛸や鱧や餅やうどんなどを食べる習慣があるそうです。
 なんでタコが・・と聞いたところその吸盤のように稲が沢山実ることを願ったそうです。先ごろテレビの料理番組で疲労回復の効果があるのはタコに多く含まれる「タウリン」が有効だと聞きましたので・・それでガッテンしました。昔の人はそのことを知っていたんですかね・・・?
 せめて私はいつもの般若湯と「タコ焼きパーティー」でもして滋養の吸収に勤めたいと思います。
            平成29年7月2日  八大