黄八丈(きはちじょう)

 浜離宮庭園を鑑賞した帰り竹芝桟橋で船を覗いていたら船が出ますよ・・と声をかけられた、吸い込まれるように飛び乗った行先は何と八丈島行きの船でした。あれっと気が付いた時には既に遅し何とかなるだろうと・・翌朝、底土の港に着いてしまった。そこには目映いばかりのブルースカイ! 我を忘れる!50年以上前に訪れたことがありました。

黄八丈
八丈島                                      と云ったら黄八丈と云う、島に伝わる草木染の絹織物で島に自生する植物の煮汁で黄色,鳶色、黒色に染められた糸を平織または綾織りに織り、縞模様や格子模様を作ったものです。  黄八丈という名称は戦後になってからよく使われるようになったもので、以前は「八丈絹」「丹後」と呼ばれていたそうです。この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術がもたらされていたため絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされてます。寛永年間にはタブノキの樹皮を使った鳶色の織物が織られるようになったが、寛政年間ごろに現在の黄八丈に使われる染色技術が完成されたといわれ孫の代まで色褪せないと云われているそうです。


明日葉(あしたば)

明日葉
八丈島植物公園
明日葉とは、世界に誇れる日本原産のセリ科の多年草で、「今日摘んでも明日には新しい芽が出る」といわれるほど成長が早く、生命力の強い植物です。セリ科には薬用植物が多くみられますが、明日葉もその一つで、江戸時代には天然痘予防に用いられていたそうです。もっと古くには「不老長寿の妙草」として、秦の始皇帝や漢の武帝が日本までこの妙草を求めて家来を遣わしたという伝説があります。「血流を改善する効果」「むくみを改善する効果」「抗酸化作用で老化を防ぐ効果」などの働きもあります。柔らかい若葉を「お浸し」や「和え物」「天ぷら」などの食用にもされています。


宇喜田秀家の話

宇喜田秀家の墓
伊豆諸島の最南端、東京から287キロの黒潮に浮かぶ南国情緒豊かな「太陽と花と緑の島」、八丈島です。

 豊臣五大老の一人で、岡山城主宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いに敗北し、島津家・前田家の助命嘆願によって死罪を免れ、1606年(慶長11年)八丈島に流罪となった。 八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られていたそうですが、その最初が秀家一行であったそうです。
宇喜田秀家は、二人の息子など一行13人で渡島し、髪を下ろして「休福」と号し、1655年(明暦元年)84歳で亡くなるまでの50年間をこの島で過ごしたそうです。
八丈島歴史民族資料館には、備前岡山の漁船が八丈島に漂着し、この船頭と海岸の岩の上で釣りをしていた老人(秀家)との問答など、興味深い資料が多数展示されている。
宇喜田秀家の墓は、流刑生活を送った八丈島の大賀郷にあり、当初は卒塔婆型の細長い石に「南無阿弥陀仏」の名号を刻んだ墓石であったが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号し、その後、高さ6尺の五輪塔型の墓石に改められた。墓地を囲む石垣の上には、「岡山城天守閣礎石」と刻まれた石が設置されている。
 秀家が流罪に決まった時、妻豪姫は同行を望んだが受け入れられず、実家前田家で余生を送ることとなった。

八丈植物公園
前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで、1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、薬品など物資の仕送りが続けられたそうです。八丈島西岸に南原千畳岩と呼ばれる風光明媚な海岸がある。岡山城築城400年という節目の年(平成9年)、秀家と豪姫の像が、この地に建てられた。二人は仲良く、岡山城の方角を見つめている。

  

ついつい当時のことを思い浮かべなが思感傷に耽ってしまいました。


霜 月             八 大

















 






蜀山人の狂歌

蜀山人
「恐れ入り谷の鬼子母神」「どうで有馬の水天宮」,「志やれの内のお祖師様」と読まれた有名な洒落は太田南畝(おおたなんぼ)という江戸時代の狂歌師の作です。今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらんと。死に際にしても悲観的過ぎずちょっと茶目っ気を感じさせますよね。

大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)は、天明期を代表する文人・狂歌師であり御家人である。名は覃(ふかし)字は子耕、南畝は号であります。通称、直次郎、のちに七左衛門と改めています。別号を、蜀山人(しょくさんじん)と名乗る。

江戸の高名な狂歌師、蜀山人が多摩の河原の小屋で酒を飲んでいた。自作の作品で          「朝も良し昼もなお良し晩も良しその合いあいにチョイチョイとよし」を、口ずさみご機  嫌そのときノミが一匹、盃に飛び込んだ、そこで一首                「盃に飛び込むノミも飲み仲間、酒のみなれば殺されもせず」の即吟となる。       盃の中のノミがすかさず返し歌を                         「飲みに来たおれをひねりて殺すなよのみ逃げはせぬ晩に来てさす」洒落て読む。


「入谷の鬼子母神」は皆さんご存じの通りの語呂合わせです。安産や子育ての神として祀られることの多い鬼子母神。子を見守る優し気な神かと思いきや、元は多くの子供たちを養うために、人を殺して食らうというおぞましい鬼であった。悪鬼が転じて神になろうとは・・江戸時代中頃、とある大名家の奥女中が腫れ物で困っていたところ、入谷の鬼子母神にご利益があると聞きつけて、お参りにやってきたのだという。21日目の願掛け最後の日境内でつまずいてしまう。その時ぽろっと腫れ物が破れ膿が出て完治したと・・か。 この話を聞いた狂歌師・大田南畝がそのご利益に恐れ入ったと云うところでこの言葉が口をついで出たという。 


「情け有馬の水天宮水の守護神としてまた安産・水難除けの神として知られています。 東京都中央区にある神社。 文政元年(1818)、久留米藩主有馬頼徳が芝赤羽橋外の同藩上屋敷内に久留米から勧請した水難の守り神となる。以後、江戸の庶民にも広く親しまれ幕府から裁可されて、毎月5日に限って参拝が認められるようになりました明治5年に久留米藩下屋敷のあった日本橋蛎殻町へと遷座しています。久留米藩・有馬家は「江戸庶民ファースト」だったのでしょう。有馬家の情け深い恩情に感謝して、有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「情け有馬の水天宮」という言葉が生まれたと云います。


「お祖師様」このお寺は江戸時代には厄除けのお祖師さんとして庶民に大変な人気がのスポットであったそうです。おそっしは似通った別の言葉を当てて違った意味を言う洒落のことで お祖師様とはその宗派を初めて開いたその肖像で、特に日蓮宗の開祖の日蓮上人を尊敬して云います。お祖師、おそっさまと。祖祠堂に安置されている堀之内の「厄除け祖師」と呼ばれ江戸時代から現代に至るまで霊験あらたかなことで広く信仰を集めています。 明和6年(1769年)の火災の後の再建工事には、名工と言われた欄間彫刻師、波の伊八(初代)が参加したそうです。地元世田谷の堀之内では厄除けのお祖師様と呼ばれているそうです。

言葉の面白さ「地口」                               ことわざや俗語などと同音、あるいは音声(発声)の似通った別の言葉を当てて、違った意味を言う洒落のことです。例えば「舌切り雀」を「着たきリ雀」と言い換えるというようなことです。地口は、言葉遊びの一種で「洒落」とほぼ同じ意味を持ちます。江戸時代の享保年間に流行したそうです。


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