錦 鯉 (泳ぐ宝石)

 先日、錦鯉の里と云われる十日町を訪れました。越後平野でも稲刈りが終わり農家の皆さんも一段落し、これから村の仲間と連れ立って湯治に行くような話をしてました。この地方の人達もこの時期が一年中で一番リラックスした楽しい日々が送れるということで多くの村人たちが寄り添って近くの湯治場に出掛けたそうです。最近はライフスタイルが変わって湯治という言葉もあまり聞かれなくなりましたね。

 錦鯉とは色や班紋があり観賞用に飼育している鯉の総称ですが、平成16年9月の新潟県中越地震のでは大変な災害を受けました。マスコミを通じてご存知の通り牛を救助するためヘリコプターで吊り上げたり、養殖場が崩壊したため大量の錦鯉を避難させたり大変なことがありました。その後は新潟県復興のシンボルとして観賞用の錦鯉が見直されているそいうです。

 錦鯉が初めて出現したのは江戸時代の文化文政の時代、現在の新潟県の山間部(主に小千谷・山古志・魚沼周辺)において食用として飼われていた鯉の中に突然変異で色のついた変わり鯉が現れたのが始まりだそうです。その後何代も交配が加えられ現在のような美しい錦鯉へと移り変わったそうです。でも一説には原産地はペルシャ地方と考えられて、今から一千年も前に中国から日本に渡来したとも云われています。

 色については当初は「色鯉」「花鯉」「模様鯉」などと呼ばれていたが第二次世界大戦中の時局にそぐわないということで「錦鯉」となったと云われています。今では日本だけでなく世界中での評価も高く愛好家も多くNisikigoi>としの地位を確立いているそうです。

 鯉の愛好家は今では世界中に広がっており、その美しい錦鯉は体形、色彩、斑紋の三つが基本に評価されますが人気のある物には一匹で数百万円を超える物もあるそうです。
愛鯉家の皆さんからはその姿を見て「泳ぐ宝石」とも評価されています。 

 令和元年  11月          八 大






インディアン・サマー?


インディアンとサマーの組み合わせなんて、私はあまり聞いたことはなかったけれど、どんな意味があったんでしょう?

 北米(ニューイングランド)における晩秋から初冬にかけて風が弱く穏やかで暖かい日が続く、11月から12月の初め頃の時期を云うそうで現在では英語を話す各国でも用いられ英和辞典でも、日本の「小春日和(こはるびより)」として引用されています
 
 人の人生や時代が落ち着いてきた晩年の頃、穏やかで落ち着いた生活の続く時期と云ことですネ。ネイティブアメリカン(先住民)たちは冬に向けて秋に狩りをして暖かい日が続くと動物たちは活発になるので苦労せずして狩りが出来、収穫物を貯蔵する作業もあり何かと忙しい時期でもあります。また植民者間では植民地をめぐる争いが行われており、奪われて土地を取り返すために襲撃が多くなった時期に当てはめて、インデアン・サマーとよ呼ぶようになったとも云われていたそうです。

 日本では古くから冬の季語にもなっていますが、おおよそ11月ごろより12月の初旬ごろの時期で晩秋から初冬にかけての頃に見られる暖かな晴天を小春日和と云って愛される季節です。田んぼの稲刈りも終わり神様に捧げる新嘗祭も済んでから、疲れをとるため仲間や家族同士が一年の疲れをとるためにのんびりと近くの湯治場に行く人たちも多くおりました。自分に対する癒しであり年に一度の贅沢な日々であります。

 こんな話になると私が子供の頃、近所のおばあちゃんたちが縁側に出てお茶をすすりながら世間話を楽しみ漬物を自慢している姿が思い起こされます。そばには猫がけだるそうに欠伸をくりかえしている貧しいけれど平和な暮らしが蘇ってくるように感じられますよね。

 令和元年   11月        八 








        


















 天使の梯子

太陽への梯子
今月のよく晴れた空の下、古利根川の岸辺に遊んでいる水鳥を眺めているとき、まぶしいほどの光を感じた。見上げると太陽に繋がるように太陽への梯子が掛かっているように見えた。

 私が一瞬思えたことは、我が日本国の太陽神である天照大御神が登り階段を降ろして、光の階段を登って来なさいと私を招いているように感じた。圧倒され呆然として佇むことしかできなかった。

 これは日本の神話に出てくる皇室の祖神・日本国の総氏神・太陽の神格化した神、天照が光の梯子を降ろして何かを告げようとしたのか・・・自問自答するも、全くその先には進むことが出来なかった。その間思考が止まって何ともスピリチアルな現象に包まれた不思議な時間でした。

天使の梯子・東京
 天使の梯子とは画家レンブラントが旧約聖書創世期に由来する。この名称はヤコブが夢の中で雲の切れ間からさす光のような様子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされる。

 そのことからやがて自然現象もそのように呼ばれるようになったもので、この光りの光線を好んで描いたことからレンブラント光線というそうです。 宗教的な神々しさを表現したものでその後の多くの画家にも好まれて描かれていることはご承知の通りです。





 令和元年  11月    八 大












 大嘗祭

 大嘗祭とは天皇が即位後初めて行う新嘗祭を云う。その年に新たに収穫された稲の初穂を天皇自ら祖神天照大神をはじめ天地のよろずの神々に差し上げる一代一度の大礼であります。祭りに用いられる新穀はあらかじめ卜定(ぼくじょう)された悠紀、主基の国から奉られ祭りの日の夜、天皇は新しく造られた大嘗宮の悠紀殿(東方の祭場)、主基殿(西方の祭場)で、これを神に供え、自らも食する。即位後必ず行われるから践祚大嘗祭といい、一世一度の新嘗祭であるから大新嘗祭とも云う。儀式は即位の礼が七月以前ならその年で、八月以後ならば翌年で大嘗祭の日に行う。
 天武天皇の2年(673年)から後土御門天皇の即位(1467年)後に起こった応仁の乱の以後しばらく中絶していたが、東山天皇の時(1683年)から再興された。その後、中御門天皇の時(1710年)大嘗祭は行われず中止となり、桜町天皇の時(1738年)復興がなされ現在に至っている。大嘗祭を、おおにえのまつりとも云われる。


大嘗宮の造営中
 大嘗宮とは大嘗祭を行う祭祀の場所をいう。この場所は大嘗祭のたびに造営され、斎行された後は壊され奉焼される。古くから造営場所は朝堂院の前庭であった。祭りの10日前にに木材と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えて5日間で全ての殿舎を造営し、祭りの3日前に竣工していたという。後に大嘗祭宮の規模は大正、昭和、の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるためといった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数か月かけて造営しているそうです。古来から茅葺の屋根も諸事情もあり見た目にも簡素になっております。
大嘗宮(11月8日)

 令和元年  11月    八 大