カルミヤの花

我が家のカルミヤ
 カルミヤ アメリカシャクナゲ(石楠花)と呼ばれており明治時代に桜をアメリカに寄贈したお礼として渡来したものだそうです。別名をハナガサシャクナゲとも呼ばれ花の形を花笠に見立てたようで星形のつぼみも面白いですね。アメリカでは自生の植物でインデアンが根からスプーンを造っていたので「スプーンの木」とも呼ばれているそうです。

日本でも最近園芸用として栽培されておりましてよく見かけるようになりました。我が家でも20年ぐらい前から庭の片隅で1mほどの高さで一本だけ咲いています。ピンク色が一際目立っており、この時期だけですがお姫様のような扱いを受けておりいます。チョット見ると五角形の形は金平糖のようにも見えている時もあり懐かしさもあります。

花の形をよく見ると小さな五角形のパラソルがたくさん開いているようで何とも可愛らしいでね。花言葉は「大志を抱く」「爽やかな笑顔」「野心」とありますが、実はカルミヤの葉にはシャクナゲやツツジ科の植物にあるグラヤノトキシンと云う毒を持っており、誤って食べると下痢や嘔吐になりやすいので注意が必要です。そのためカルミヤは
安行の史跡巡りの途中で
別名「羊殺し」
という名前が付けられているそうです、それなりのご注意が必要です。

晩春の頃つぼみが膨らみこの梅雨の頃に掛けて一か月ぐらい少しずつ開いていくので色の変化もあります。長い間楽しませて戴いた上花が終わった後も散らずに少し茶色になりましたが春を見送っております。

安行の史跡巡りでは花と緑に囲まれて楽しい                     一日となり感謝の一日でした。

 令和4年 皐月          八 大




「初夏の風」川上澄生の版画

本棚を整理していたら一枚の絵ハガキが 出てきた、なんとこの清々しさは・・。

あれは確か30年ぐらい前でした、車で日光の田母沢御用邸を見に行くときに途中の鹿沼市を流れる黒川の近くを通りかかった際「川上澄生美術館」がありました。この辺りではあまり見かけることのない建物だったので美術館の中に入ってみました。薄緑色の版画が展示されており・・ なんじゃこりゃ? と思った記憶がありました。

初夏の風

 かぜになりたや 

はつなつのかぜとなりたや  
                         かのひとのまえにはだかり

かのひとのうしろよりふく

はつなつのはつなつの 
                         
かぜとなりたや 


川上澄生は父親の仕事の関係でアメリカやカナダにに滞在しその間当地の美術学校に学び、帰国してからは栃木県・宇都宮旧制中学校で英語の教師として赴任し、好きな版画や詩の制作にも打ち込んだ。大正11年に発表した「初夏の風」は版画と詩が一つの画面で響きあう独自の世界を作り出したという事で版画界で大きな反響を呼びました。

棟方志功が版画家になるきっかけとなったのは川上澄生の作品だったと云われています。


川上澄生詩と絵の世界



鹿沼市立川上澄生美術館








へっぽこ先生



波囲み南蛮船










 令和4年 皐月        八 大







「オシラ様」蚕の神様

オシラ様
オシラ様

初夏の今頃を皐月と云いますが「木の葉採りの月」という別名があり蚕のエサである桑の葉を摘む頃と云う意味です。養蚕は戦前まで日本では盛んでたくさんの桑畑が広がっており蚕は美しい糸をはいて繭を作りその繭から絹の糸が取れます。東北地方では蚕と家の守り神である「オシラ様」が広く信仰されております。


桑の葉
主に村の旧家などに祀られていて、生活に深く浸透している              であります。オシラ様は人形神で、ご神体は30センチほどの長さの桑の木で作られた二体一組の偶像です。その姿は馬頭、姫、男女、など、そのお顔は彫刻や墨書きなど様 々である。ご神体である桑の棒は、元々はオシラ様を宿らせ る道具から変化したもので、桐の箱などで大切に保管されて いたそうです。


「遠野物語」で有名な遠野市は岩手県花巻市の東側にありま
曲がり家
すが、昔から柳田国男がこの地方に伝わる逸話や伝承などを
蒐集したもので日本民俗学の先駆けとも云われており良く知
られております。この地方独特の「曲がり家造り」の旧家に
上がらせて頂いてオシラ様の話を聞いたことがありました。
ご神体を前にして老婆の語り口は何とも恐れ多い感じがして
ジッとその口元を見つめているだけでした。


絹織物の歴史 シルク素材は最も古い繊維と云われおりますが、何と紀元前の20世紀に中国で始めたと云われています。中国の皇女が当時「繭」で遊んでいた際に繭をお湯の中に落としてしまいました。しかしそれを拾い上げる時に糸を手繰ったことで絹糸つくりの最初だった事が伝わっています。また中国の甲骨文字に「桑」「蚕」「糸」「棉」などの文字が見つかっております。シルクを養蚕する技術は中国で発達しましたが国外に持ち出すことは禁じられていました。その為ヨーロッパの人達はどうにかして手に入れようとして中国との交易したそうです。その交易の道が「シルクロード」という言葉に繋がります。

シルクロード


現在では多くの布製品が化学繊維に変わっており国内で生産を続けているメーカーは生産コストが合わずに国内の養蚕家が少なくなっております。絹製品のほとんどは中国やブラジルなどにに変わっており日本のシェアは僅かに10%になっているそうです。時代の変化とは言え将来が心配ですね。


 令和4年 皐月         八 大








二十四節気の話 蚯蚓出(みみずが地上に這い出る)

蛙始鳴
「 みみず」は夏の訪れを告げ、畑の土を豊かにする上でも欠かせない生き物です。一昨日久しぶりに畑仕事でナス苗を植えようとすると早速にお目見えされたのが、あのニョロニョロとしたみみずのお出ましです。その名前の由来は手足もなく目もないその姿の「見えず」から派生したとされています。みみずは一生を土の中で過ごし細い体で這いまわり、土の中に含まれる微生物を食べます。みみずが排出する粒状の糞が植物を育ちやすい土質に作り替えるそうです。又みみずは漢方では解熱や気管支を広げることで咳を和らげる効能があるそうです。

蚯蚓出

季節を表わす言葉に春夏秋冬がありますがもう少し細分化すると「二十四節気」と云う言葉があります。春夏秋冬を更に6つに分けることで、1年を二十四に等分し、それぞれの季節に相応しい名がつけられています。季節の訪れを一歩先んじて察知することができ、農作業に従事する人には欠かすことのできない暦です。さらにその二十四節気の各一気(約15日)を約5日ごとに初候、二候、三候と3等分し、一年を七十二
に分けたものを「七十二候
竹笙生
と云います。                   

一年のスタートは立春から始まりますが、立夏の頃は二十四節気の内で最も過ごしやすい季節の夏が始まります。カエルの声が聞こえる蛙始鳴(かわずはじめてなく)、ミミズが動き出す蚯蚓出(みみずいずる)、タケノコが芽を出す竹笙生(たけのこしょうず)今がこの季節であり土の中ばかりでなく人の世界でも心をウキウキさせる季節になりましたね。

古代中国では陰暦が用いられ、日付が太陽の位置とは無関係であったので春夏秋冬の循環による暖・暑・涼・寒の訪れにズレを生じることになります。これを補うために日付とは別に季節区分法が必要になったそうで、つまり太陽の黄道上の位置、黄経三百六十度を二十四等分した位置にそれぞれの節気を配置して、一年の気候の推移を知るようにしたものだそうです。夏至、冬至、春分、秋分と立春、立夏、立秋,立冬の八節を合わせて暦と季節のズレを正しながら用いられていると云います。   (暦は難しいですね。)

 令和4年 皐月         八 大








 

遠藤さんちのバラ園

 春日部(藤塚)「遠藤さんちのバラ園」

 毎年、この時期に自宅を開放して皆さんにサービスしているそうです・





















ウクライナの近況と将来

 ウクライナと云う国

ウクライナ国旗
 ウクライナは東側をロシアに、西側をヨーロッパ連合(EU)の国々に挟まれた、人口4千万人を超える国で、面積は日本の1・6倍、耕地面積は農業国であるフランスの1・8倍もあり、小麦などの穀物や野菜などたくさんの農産物が生産されることから「欧州のパンかご」とも呼ばれます。国旗の青色は空を、黄色は小麦畑と二色で表されており、いかにも農業国であることを象徴しています。

 今の首都キエフに生まれた「キエフ公国」(キエフ・ルーシ)が10~12世紀に欧州の大国となり、同じスラブ民族からなるロシア、ウクライナ、ベラルーシの源流になりました。ルーシとはロシアの古い呼び方です。13世紀の歴史で「モンゴルのくびき」については前号で述べましたので割愛しますが,その後に栄えたモスクワがロシアを名乗り、キエフ・ルーシを継ぐ国と称しました。ウクライナは東スラブ民族の本家筋ですが、分家筋のモスクワが台頭して大きくなったとも言えます。

 ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ東部で特別な軍事作戦を行うことを決めました。「兄弟国」とも呼ばれる、かつてのソビエト連邦(ソ連)の仲間を、なぜロシアは攻撃しようとするのか。その背景と経緯をまとめた。

 ウクライナは20世紀になると、世界で初めての社会主義国であるソビエト連邦(ソ連)ができ、広大な領土を持つ国となった。しかし、1991年にソ連が崩壊して多くの国に分かれた。ロシアもウクライナも、このときに独立しました。ただ、首都モスクワを含むロシアが人口の多さも領土の広さも群を抜いているため、ロシアのプーチン大統領は「ロシアが兄でウクライナなどが弟」という関係と見ていた。

ゼレンスキーとプーチン
独立して民主主義国になったウクライナは、ロシアと親しくしようという政権と西ヨーロッパの国々と親しくしようという政権の間で揺れた。2014年に親ロシアのヤヌコビッチ大統領政権が倒れるとプーチン大統領は軍隊を出して、黒海に突き出たウクライナ領のクリミア半島を占領し、強引にロシアに組み込んだ。さらにウクライナ東部(ドネツク州とルガンスク州)にいて独立を目指す親ロシア派の武装組織を支援し、ウクライナ軍との小規模な戦闘が続いてきた。今回のロシアの侵攻にはそういう伏線があったのです。

プーチン大統領が戦争をしてまでウクライナを従わせようとする大きな理由は、ウクライナがロシアとヨーロッパにはさまれた位置にあることです。ウクライナがヨーロッパの国々と親しくなり、北大西洋条約機構(NATO)に入ることになれば、プーチン大統領からすると、すぐ隣にNATO軍がいることになり心穏やかでない。プーチン大統領としては、ウクライナをNATOに入れさせないために、ロシアの言うことを聞く国にしないといけないと考えたとみられる。もちろん、ロシアの言い分が国際社会で通るわけがない。ウクライナがどの国と親しくしようが自由で、それを武力で一方的に変えさせようとするのは許されることではない。

米国、欧州の国々や日本などの多くの国は、ロシアに対して経済制裁を発動した。ロシア通貨のルーブルと外貨との交換を難しくしたり、ロシアが外国に持っている資産を差し押さえたり、ロシアの輸出品に高い関税をかけたりしてプーチン大統領の弱体化を図った。

ロシアの侵攻を通じて、浮き彫りになった問題が二つあると思います。一つは国連の弱さです、国連で平和と安全に責任を持つのは安全保障理事会だ。常任理事国は5カ国で、ロシアも入っている。実行力のあることを決めるには5カ国が一致して賛成しなければならないというルールがあるため、ロシアが反対すれば何も決められない。国連のしくみを変えて、国連の実行力をもっと発揮しやすくしなければならないと思った人は多いだろう。  もう一つは、核保有国が独裁的なリーダーのもとで戦争を始めたときの怖さです。ロシアは世界で最も多くの核弾頭を持つ国です、暴走するプーチン大統領はウクライナに対して核兵器の使用すら匂わせる発言をしています。このままでは核を持つことが自国を守ることに繋がると考える国が増えれば世界はますます危険な状態になっていく。確かに核戦争にならないことを危惧しているとは思うが、使えば使われることにもなり最後は自制心が働く事は自明の理であります。

この戦いでウクライナは多くの人命を失った事は大きな痛手であるが、長い目で見れば攻め込んだロシアの方が長期的には政治的・経済的・国際的にも孤立して行くことになるでしょう。時が経つにつれてロシアは国内の混乱が続いて行き貧しい国にななると思われ大きな代償を払う事になると思います。 ウクライナ頑張れ・ゼレンスキー頑張れ!

 令和4年 皐月         八 大