浮野の里

加須の IC近くに「浮野(うきや)の里」という125ヘクタール程のミニ水郷があります。この辺りは氷河期が終わり気候の温暖化で海水面が上昇し関東平野の奥まで海水が侵入して出来た奥東京湾で波打ち際が「浮野」になったといわれています。この辺りでは珍しく「武蔵野の面影」を残す昔懐かしい農村風景がありその周辺には屋敷林やクヌギ並木や田掘りと云う水路があり田園の風景が残されており画になる風景が残されています。

ここには山の湿原でしか見られない植物が自生している珍しいところだそうです。トキソウ、ノウルシ、エゾミソハギやカキツバタなどが季節によって見られますが、そんな中でもノウルシはトウダイグサ(灯台草)科の多年草で、苞葉の中に黄色い花を複数付けその中に黄色い花がある様が灯火の皿に見立てた和名で、茎や葉を傷つけると白い乳液を出しその液は有毒です。環境省から準絶滅危惧種に指定されている貴重な植物で約300坪ほどの群生地が見られる処で、今の時期、薄い黄                     色の葉が絨毯のようで目を見張ります。

ノウルシの高さは30CMぐらいで、茎を切ると漆に似た白い液体が出ることから、ノウルシの名前が付いているそうで花が地味なのでその匂いで昆虫たちを誘って受粉に繋げているそうです。ウルシの名前から木の漆器を思い出しますが、草のノウルシはその匂いは何か消毒薬のように感じます。虫たちは誘われるように集まってきますが何でこの匂いが虫を呼び寄せるのか不思議でなりません。

一方、古利根川ではこの時期田植えの準備のため、満々と水を湛えて人道橋の縁では溢れそうです。その為可哀そうなことに所々に育っていたノウルシは水没してしまい残念なことに今は見えませんでした。田植えが終わって一旦水が落ちる頃また瑞々しい姿が見られる事でしょう。それまでは注目していますよ。

 令和3年 卯月        八 大







花水木

 今、駅前の街路樹にハナミズキがきれいの咲き始めています。北アメリカ原産の花でミズキの仲間、花をつけるのでこの名前が付きました。秋には赤い実を付けその後に紅葉が見られることはご存知の通りです。

1915年(大正4年)に東京市長だった尾崎行雄がアメリカ、ワシントン市へ我が国のさくら(染井吉野)を送った返礼としてアメリカ合衆国から贈られたものです。別名を「アメリカ山法師」と云われていますが、アメリカから渡来した時に日本の山法師に似ていたのでその名前が付いたと云われています。

それから後、日比谷公園や小石川植物園などに植えられましたが、あの戦争の際にほとんどが伐採されてしまいました。平成24年にワシントンの櫻寄贈100周年記念としてハナミズキが送られたことで今日では日本各地に植えられ日本の春を飾る花としてどこでも見られるようになっております。一青窈さんのシングル盤でも一時流れておりましたね。

こんな話もありますね。 イエス・キリストが架かった十字架にはハナミズキの木が使われており、そのため以前は大きかったこの木は小さくなり花は4弁で十字架の似ていて花弁にくぎを刺された傷跡があると云う伝説があると云われていました
。この伝説の出どころはアメリカ合衆国からと推察されますが、20世紀より前にはない伝説で勿論キリスト教の聖書にもはありません。

 令和3年  卯月        八 大



山吹の話

晩春に鮮やかな黄色の花を毎年届けてくれる山吹ですが、古くから親しまれた花で家庭でも栽培されています。最近では一重の他に八重の花を見る機会が多くなっていますね。多分愛好家が収集育成しているのでしょうね。山吹はバラ科の落葉低木で北海道から九州まで広く分布しており国外では中国でも多く育っているそうです。山の中に生えしなやかな枝が風に揺られる様子から「万葉集」では「山振(やまぶり)」と呼ばれ、転じて山吹になったとも
云われています。

山吹と云うとすぐに太田道灌の逸話がありますがその解釈に違い?もあるようです。普通は八重咲き山吹には実がつかないことを述べた歌とされるが、「七重八重」を山吹が積み重なるように咲く様子と解し、山吹の果実が堅くて食えないので、「山ほど花が咲くのに、食える実がつかないのは情けない」とする解釈もあるらしい。

山吹には実がつかないと思われがちであるが、実際には一重の基本種には立派に実が付いております。八重ヤマブキの場合は雌しべが退化して花弁になっているため、実を結ぶことがないそうです。日本で昔から栽培されてきた山吹の多くが実をつけない八重咲き種であったため、ヤマブキは実をつけないと言われるようになったようです。

また、山吹色と云えばオレンジ色黄色の中間色のことでありますが、山吹の花のような鮮やかな赤みを帯びた黄色のことです。別名「黄金色」とも呼ばれ江戸時代での隠語では「賄賂の小判」が「山吹」と呼ばれました。色名は黄色の花を咲かせる植物の山吹に由来し、平安時代から用いられて来ました。

山の中に生えしなやかな枝が風に揺られる様子から万葉集では「山振」と呼ばれ、転じて「山吹」になったと云われています。晩春に花が咲くことから春の季語となっています。昨年に珍しいと云われる「白いヤマブキ」を見せられましたが姿かたちも良く似ていました。けれどもこれは山吹とは関係のない品種とのことでしたよ。


 令和3年 卯月            八 大










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花祭りの甘茶

戦後の荒廃した世の中で育った私達の楽しみは季節ごとのお祭りでした。中でも当時の灌仏会は先祖の供養と共にお寺参りに繋がるためか思いが心に残っている。そんなことを云うと歳が判ってしまいますが 田舎のお寺での楽しみは花祭りだった。お釈迦様の誕生を祝うために花御堂を設え、たらい型の灌仏桶を甘茶で満たしその中央に誕生仏を配置します。小さな柄杓で何度も甘茶をかけてから、チョットだけ甘味のする薬草茶を何杯も戴いた記憶がありました。上等なお菓子
のない時代甘茶は珍しい飲み物で有難がって飲んでいました。

何で甘茶を掛けるのか不思議に思いました。 お釈迦様が生まれたネパール国のルンビ二という地方はヒマラヤの麓にあり盆地であります。花の咲き乱れている誕生の時、天から九頭の龍が現れて甘露の雨を注いだという言い伝えに基づいています。その雨がお釈迦様(ゴータマ・シッタルーダ)を清め、悟りの道へと導いたと信じられていることから、無病息災につながる甘茶を掛けるようになったと云われています。

甘茶はヤマアジサイの変種である「小甘茶」から作られ苦い飲み物ですが、発酵させると砂糖の100倍以上の甘さになり昔は甘味料として非常に重宝されたと云います。中国では「上に立つ者が良い政治を行って平和な世が訪れると甘い露が降る」との言い伝えや、インドの伝説には「茶は神様の飲み物で飲むと不老不死になれる」と云われており、長い時間をかけてお釈迦様への信仰に広がって行ったと云われています。

花祭りでの作法                                   1)山門の前で一礼しお寺に入る。2)手水舎で手と口を清める。3)参拝してロウソクと線香を上げる。4)お賽銭を上げて一礼する。5)合掌して祈願をしもう一度一礼する。   その時に祖父からお釈迦様の前で柏手(かしわで)を打ってはダメとを教えられました。                      お釈迦様の誕生日は紀元前463年の4月8日という説が一般的に言われております。           

 令和3年 卯月         八 大

       

                                    

清明の頃

 「清明」とは清らかなこと。二十四節気の一つで春分から15日目、今年は太陽暦4月4日にあたり、万物の精神の気がみなぎる季節とあり「清浄明潔」という言葉を訳した季語です。様々な花が咲き、蝶が舞い、空は青く澄み渡り爽やかな風が吹くころでお花見シーズンの到来の季節ですが、今年はコロナ禍によって新しい言葉、蔓延防止でまたまた自粛を余儀なくされるようです。

沖縄では4月に入るとシーミーと呼ばれる「清明祭」があり、先祖の墓にお重の料理を供えて宴を開き供養と親族の親睦を深める祭りがあります。その地域にもよりますが、天・地・海を象徴する、鶏肉・豚肉・蒲鉾などを重箱に詰め親類の皆が祝います。また沖縄本島南部の地では一族全員が同じ墓に入る伝統があるので必然的に大きなお墓になっているそうです。この行事は18世紀ごろに中国から伝わって来たそうで農作業の始まるこの季節                に先祖の霊力を借りる為に広まったとも云われています。

花言葉で清明と云う意味を持っている花があります、それはキンポウゲ科デルムニュウム属の「ヒエンソウ」があります。この花は蕾がイルカに似ていることからギリシャ語でイルカのデルフィと結びつているそうです。                   花をよく見ると日本語の飛燕草(燕の飛ぶ姿)の方が分かりやすいですね。結構あちこち空き地でも見かけますが名前を聞いて、ウンチクを聞きますが・・・ああそうだったのかと納得です。

十三参り この由来は諸説ありますが、13歳は半元服であり大人の仲間入りをする年齢だった説、厄年を迎える初めての年が13歳であり厄払いの意味があった説、13歳のなる子供たちが虚空蔵菩薩を参           拝し、知恵や福徳を授かる説。「お身代わり」として好きな漢字を          (例えばと)書いて自身の身代わりとして捧げることをしていた           そうです。昔々そんな時代もありましたね・・・。

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