コキア

 今、国営ひたち海浜公園に真紅に紅葉したコキアが見ごろとなりましたネ。コキアは、ユーラシア大陸に広く分布する植物です。日本へはアジアから中国経由で渡来し1,000年以上前から栽培されていたという記録が残っているそうです。江戸時代にはホウキの材料として広く栽培されおり、和名の箒草はホウキとして利用していたことに由来しているそうです。

写真にあるような紅色は圧巻と云う言葉がありますがその言葉が当てはまりますね。夏を過ぎた頃からふっくらと緑色から鮮やかな紅色に変化し公園の見晴らしの丘を染め上げております。その丘を登るとその向こうには太平洋が大きく広がり表示の看板に目をやるとその先にはアラスカやロスアンゼルスにに繋がるという。海のないところに育った自分でしたので大海原は何となく憧れのイメージがあります。

子供の頃玄関の片隅を柄の短くなった箒を持って毎朝のように掃除担当だった私がさせられたことが思い起こされます。確かホウキ草と呼ばれていましたが茎の部分を乾燥させ水糸かなんかで縛ってあっただけの単純なものでしたが使い勝手の良いものでした。

また、乾燥させた小さなつぶつぶの実はより分けて良く洗ってから煮つけにしたり、大根おろしと混ぜて食べていましたが、プチュプチュして歯触り良かったのを覚えています。中国より伝わったころには食用として渡来したもので、その頃から「とんぶり」と呼ばれており私たちの育ったころは畑のキャビアと呼ばれていましたね。


 令和3年  長月         八 大   





きぬかつぎ

 里芋の皮をそのまま蒸し,その皮を剥いで食べる料理を「きぬかつぎ」(衣被き)と云う。

泥だらけでお世辞にもきれいとはいえない姿の里芋ですが、その独特のねっとり感とやわらかさは、和食のメニューには欠かせない野菜です。子供の頃「おやつ」として、小腹の空いたころに食べた塩味は今でも口元に残っていましたが、何できぬかつぎと云うんだろうと思っていましたが、本当に変な名前として頭に残っていました。

これは平安時代以降に登場しました女性が外出時に頭から被った布のことだそうです。その時代には婦女子が衣もしくは薄衣を頭から被るようになり、脱ぐことが簡単であることから衣被かづきになぞらえてそう呼ばれたようです。その背景として風や埃を防ぐ目的と共に、顔を人前に晒すのを恥とする意識があったとみられています。衣服には単に手で前方をつぼめるものと腰のあたりで帯を結ぶものがありました。

里芋のぬめりは胃の粘膜や腸の働きを活発にし、血糖値や血中コレステロールを抑える働きがあると云われています。そのほか塩分の取りすぎを抑える効果や、足のむくみの防止にも効果があるそうです。しかも他の芋類に比べると低カロリーで女性にはお勧めの野菜であると云われています。料理の主役ではありませんが煮物には欠かせない一品すね

また里芋は親芋のまわりに子芋がついて、更に子芋のまわりに孫芋が連なるところから、子孫繁栄の縁起物とされています。そのため、里芋の煮物はおせち料理やお祝いの膳の定番となっていて重箱の中では欠かせない一品でもあります。


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金木犀


毎年この時期、秋を告げるよう金木犀の花は芳香を届けてくれますが、誰にでもわかる贈り物ですね。ああ又この季節がやって来たんだ、そうするとこの後は大きな三本立ての菊の花の出番です、季節は迷うことなく順序良く訪れてくれます。微かな風の動きの中でも脂粉のかおりは子供の頃、三角ベースで草野球をやった思い出が懐かしさを思い起こさせます。隣の家の金木犀はそこそこの香りを出してくれますので秋を感じますが朝、一瞬にしてオレンジの絨毯が現れるのには何とも勿体ない気分になります・

原産地は中国西南部、今回コロナ騒ぎの震源地である武漢市辺りで近くの桂林は金木犀の名所として名高いところです。モクセイ科の常緑樹で一般には桂花と呼ばれているそうですが、和名で金木犀と書くと花の名前が何でこんな字になるのと思いますよね。そうですその由来はこの樹皮が犀(サイ)の足に似ているために中国で「木犀」と名付けられたそうで、ギンモクセイ(銀桂)の白い花に対して橙黄色の花を金色に見立ててキンモクセイ(金桂)と云われています。

日本には江戸時代初期の頃中国から渡来したが、花を見ることしか考えなかったため雄株しか入ってこなかったが挿し木で簡単に増やすことが出来たので多く庭木として採用され増えて行ったようです。雌株は冬にクコの実程の小さな実を付け、熟すと紫色になる。そんなことから中国まで行かないと実を見ることは出来ないようです。

この季節に良く降る「桂花雨」の合間を縫って地上に白い布を敷いて竹竿で木の枝を叩き花を集め、その花を使って「桂花茶」「桂花酒」が加工されこの時期に食べる桂花入りのお菓子を作られたと云われています。                           木犀や障子閉めたる仏の間   正岡子規


 令和3年  長月        八 大




中秋の名月


旧暦八月十五日の満月は中秋の名月と云われ里芋の収穫時期にあたり芋名月とも呼ばれ、農村を中心に庶民の間の間で行われていた収穫祭と結びついて豊作への感謝を込めて芋をお供えする習わしがあった。                    

満月の前後の呼び名は、十三夜、子望月(こもちずき)十五夜、十六夜(いざよい)立待月、居待月、寝待月、更待月と、一夜一夜の月に名前を付けるほど月が身近に、愛でたい存在としてあったのでしょう。また十五夜が雲に隠れて見えないことを無月、雨で見えないことを雨月と雲の向こうの満月を言い表しました。

昔の日本は太陰暦で、月の満ち欠けと太陽の動きを基にして作られた暦で農業中心でその暮らしに役立てておりました。旧暦の7,8,9月を秋としておりその真ん中の日の8月の15日を「中秋」と呼び、その晩に上がる月を「中秋の月」と云いました。旧暦と新暦では1か月~2か月のズレがあるため現在の中秋は9月だったり10月だったりします。


日本では十五夜の月見が盛んになったのは平安時代に貴族の人達が、空を見上げて月を眺めるのではなく、水面や盃の酒に映った月を愛でたという事が書かれております。月が美しいから感激して眺めていたんでなくて、水面に映し出されたその月を愛でていたとは何と奥ゆかしいことか言葉が出ません。

また本場、中国の中秋の名月は、中華三大節の一つ中秋節として、家族や親しい友人を招き月餅を食べ月を見るという風習があり、現在の月餅はその時期の贈答品として定着したものだそうです。

                               



 令和2年  長月        八 大