蜀山人の狂歌

蜀山人
「恐れ入り谷の鬼子母神」「どうで有馬の水天宮」,「志やれの内のお祖師様」と読まれた有名な洒落は太田南畝(おおたなんぼ)という江戸時代の狂歌師の作です。今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらんと。死に際にしても悲観的過ぎずちょっと茶目っ気を感じさせますよね。

大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)は、天明期を代表する文人・狂歌師であり御家人である。名は覃(ふかし)字は子耕、南畝は号であります。通称、直次郎、のちに七左衛門と改めています。別号を、蜀山人(しょくさんじん)と名乗る。

江戸の高名な狂歌師、蜀山人が多摩の河原の小屋で酒を飲んでいた。自作の作品で          「朝も良し昼もなお良し晩も良しその合いあいにチョイチョイとよし」を、口ずさみご機  嫌そのときノミが一匹、盃に飛び込んだ、そこで一首                「盃に飛び込むノミも飲み仲間、酒のみなれば殺されもせず」の即吟となる。       盃の中のノミがすかさず返し歌を                         「飲みに来たおれをひねりて殺すなよのみ逃げはせぬ晩に来てさす」洒落て読む。


「入谷の鬼子母神」は皆さんご存じの通りの語呂合わせです。安産や子育ての神として祀られることの多い鬼子母神。子を見守る優し気な神かと思いきや、元は多くの子供たちを養うために、人を殺して食らうというおぞましい鬼であった。悪鬼が転じて神になろうとは・・江戸時代中頃、とある大名家の奥女中が腫れ物で困っていたところ、入谷の鬼子母神にご利益があると聞きつけて、お参りにやってきたのだという。21日目の願掛け最後の日境内でつまずいてしまう。その時ぽろっと腫れ物が破れ膿が出て完治したと・・か。 この話を聞いた狂歌師・大田南畝がそのご利益に恐れ入ったと云うところでこの言葉が口をついで出たという。 


「情け有馬の水天宮水の守護神としてまた安産・水難除けの神として知られています。 東京都中央区にある神社。 文政元年(1818)、久留米藩主有馬頼徳が芝赤羽橋外の同藩上屋敷内に久留米から勧請した水難の守り神となる。以後、江戸の庶民にも広く親しまれ幕府から裁可されて、毎月5日に限って参拝が認められるようになりました明治5年に久留米藩下屋敷のあった日本橋蛎殻町へと遷座しています。久留米藩・有馬家は「江戸庶民ファースト」だったのでしょう。有馬家の情け深い恩情に感謝して、有馬家と「情け深い」ことを掛けて、「情け有馬の水天宮」という言葉が生まれたと云います。


「お祖師様」このお寺は江戸時代には厄除けのお祖師さんとして庶民に大変な人気がのスポットであったそうです。おそっしは似通った別の言葉を当てて違った意味を言う洒落のことで お祖師様とはその宗派を初めて開いたその肖像で、特に日蓮宗の開祖の日蓮上人を尊敬して云います。お祖師、おそっさまと。祖祠堂に安置されている堀之内の「厄除け祖師」と呼ばれ江戸時代から現代に至るまで霊験あらたかなことで広く信仰を集めています。 明和6年(1769年)の火災の後の再建工事には、名工と言われた欄間彫刻師、波の伊八(初代)が参加したそうです。地元世田谷の堀之内では厄除けのお祖師様と呼ばれているそうです。

言葉の面白さ「地口」                               ことわざや俗語などと同音、あるいは音声(発声)の似通った別の言葉を当てて、違った意味を言う洒落のことです。例えば「舌切り雀」を「着たきリ雀」と言い換えるというようなことです。地口は、言葉遊びの一種で「洒落」とほぼ同じ意味を持ちます。江戸時代の享保年間に流行したそうです。


 霜月              八 大













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