元号とは 

本家中国の話
そもそも元号とは中国前漢の武帝の時代、紀元前115年頃に統治の初年に遡って「建元」という元号が創始されて漢字と数字の組み合わせで年次を表した物でそれ以降、清まで用いられたと云われています。
皇帝が国の独立や力関係、領土や領民を時間的に支配する象徴だった,という説が有力で、次々と漢字を使う国に広まったとされています。
武帝の時、「元」は祥瑞によって決めるべきで、即位の年を「建」、彗星出現の年を「光」、一角獣(麒麟)捕獲の年を「狩」とすることが献策された。これによって「建元」「元光」「元狩」といった元号が作られ、以後、このような漢字名を冠した元号を用いる紀年法が行われるようになった。
1911年に辛亥革命によって清が倒れると元号は廃止された。各省政府は当初、革命派の黄帝紀元を用いていたが、これもまた帝王在位による紀年法であり、共和制になじまないという理由で、中華民国建国に際し、1912年を中華民国元年(略して民国元年)とする「民国紀元」が定められた。
そうすると現在の中華人民共和国の年号は西暦2019年で中華民国108年である?

日本の元号の歴史
元号使用の歴史
『日本書紀』によれば、我が国初の元号は、西暦645年の「大化」である。その後は、一時的に元号のない時期もあったが、西暦701年の「大宝」から「平成」まで、1300年以上にわたって継続的に元号が用いられています。
大化から平成までの元号数は合計247回を数えられています。そんな中で我々は、元号といえば「漢字2文字」と思いがちですが、実は四字熟語の元号名が過去に5つありました。奈良時代に「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」の時期があったので必ずしも2字熟語にしなければならない、という規則がなかったからでしょうが、調べてみますと昭和54年に元号法の改正があり二文字に決められました。
また7世紀後半頃からは元号よりも一般市民の多くに多用されていた「干支」の使用が主流だったことも聞きます。
改元にもいろいろな形がありました、元始改元、(天皇の死もしくは譲位によって低位の交代が行われた際で即位改元)祥瑞改元、災異改元、革命改元、(辛酉革命)があった。
歴史を振り返りますと、天皇1人につき元号一つという天皇一世一元制が定められたのはつい最近の明治からでありました。それまでは、むしろ同じ天皇の在位中に改元されることが珍しくなかった。
1895年(明治28年)118日、三国干渉の結果、遼東半島還付条約が成立して、日本の「明治」と清の「光緒」が二ヶ国の年号が記されている事もありました。

元号制定の条件
・ 元号は本邦はもとより言うを俟たず、志那、朝鮮、南詔、交趾(ベトナム)等の年号、その帝王、后妃、人臣の諡号、名字等及び宮殿、土地の名称等と重複せざるも のなるべきこと。
・ 元号は、国家の一大理想を表徴するに足るべき言。
・ 元号は、古典に出処を有し、その字面は雅にして、その意義は深長なるべきこと。
・ 元号は、称呼の上、音階調和を要すべき言。
・ 元号は、その字面簡単平易なるべき言。

 元号制定6つの (手続きの条件)
 ・国民の理想として相応しいか(良い意味で)
 ・漢字2文字 ・書きやすい ・読みやすい ・これまでに用いられていらない
 ・俗用されていないか 
などが示されております。
元号については、中国の古典に使われているもので典拠を明確にしてください
とい決まりがあるということです。

委嘱される有識者の条件と決定メンバー
新元号の「考案メンバー」には、文化勲章受章者・日本学士院会員の漢学者・
国文学者・歴史学者・日本学士院会員・文化功労者文化勲章の受章者など数名が選ばれるという。
また、決定メンバーは前回の『平成』同様、日本新聞協会会長、NHKと民放会長、
国立大学協会会長など数名だと見られています。

新元号の発表は
元号の正式決決定はいつなのか最も気になるところでした。政府内では、平成312月下旬以降という見方が強くなっていました。理由として、いまの天皇陛下の、ご在位30年記念式典が224日に東京国立劇場で開かれることが決まっているのでそれ以降となる。
201913日に現在の政府方針では、新元号の方針では201951日改元の一か月前の201941日とする発表がありました。
 


〇 この先は面白エピソート

6つの原則から推測していくと
・「平」の一文字を受け継いだら
「文平」「和平」
・「成」の一文字を受け継いだら
「天成」「天啓」「天恵」


 江戸時代最後の天皇・孝明帝は、
 在位20年間に
 「嘉永」「安政」「万延」「文久」「元治」「慶應」と6つもの元号を用いている。改元の理由は、天変地異によって飢餓が発生したり大地震や大火が起きたりと、さまざまだ。あるいは、疫病の流行があったときも改元は実施された。

明治の「元号」はくじ引きで決まった
 数ある元号の中でたったひとつ、くじ引きで決まった元号があることをご存じだろうか。東京・明治神宮のホームページには、次のような文言がある。
「『明治』の元号もいくつかの候補の中から明治天皇がくじを引いてお選びになられたのでした」
 慶應497日の夜、前越前藩主・松平慶永(まつだいら・よしなが)が考案したいくつかの元号案をくじにして、天皇自らが賢所(かしこどころ)で抽籤(ちゅうせん)、その結果「明治」を引き当てたという。
 元号を改めるということは、それまでの厄災を振り切って新たな時代を切り拓くという意味がある。なんとなく、日本人のメンタルに今なお息づく、“水に流して忘れよう”的な意味合いを感じなくもない。
 古来より日本ではくじは神の意思を問うための大切な神事とされており、古代には盛んに行われていた。おそらく、王政復古の大号令によって重要な物事をくじで決めていた国古の風習に立ち返り、くじ引きが採用されたのだろう。くじ引きによって新元号が決定されたのは、後にも先にもこの一度きりとの事です。


 当時の小渕官房長官もビックリ
 昭和から平成に代わる直前のことだ。新元号をスクープしようとした某新聞社の政治部員が、大化から平成まで歴代の元号に使用された文字と、過去に候補とされた漢字を組み合わせて一覧表をつくり、当時の小渕官房長官に見せたことがあったそうだ。その中にはなんと「平成」も入っていた為、後に小渕官房長官は「あのときは心臓が止まりそうになった」と語っていたという


光文事件
 過去には、大正から昭和に改元される直前の「光文事件」がある。大正天皇崩御直後に東京日日新聞が「元号制定『光文』と決定」と報じたが、実際に発表された元号は「昭和」だったため、世紀の大スクープのはずが一転して歴史的大誤報となってしまったのだ。真相をめぐっては諸説あるが、事前に報道されてしまったために急遽、次点扱いだった「昭和」が正式採用されたともいわれる。


元号を大胆予想!

平和 和平 安久 未来 自由 新生 大成  希望 安泰 安幸?
 はたして、4月発表される新元号名は何になるのだろう。インターネット上では、早くも予測する動きがたくさん見られるが、私たちが推理した新元号名を出せば出すほど、それは候補から外されていく可能性が高くなるものです。


              平成3113日         八 大


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