嵯峨野路その3

百人一首の話(藤原定家と蓮生)

 祇王寺から清凉寺釈迦堂に向かう道を歩くと、道端の看板に目が留まった。「中院山荘跡」とありよく見ると「新古今和歌集」などの選者の一人であり「小倉百人一首」を編纂した藤原定家がここの小倉山の麓で作歌活動をしていたところであり、思わず目を閉じて想像を膨らませてしまいました。

「小倉百人一首」は、平安時代から鎌倉時代にかけて活動した藤原定家の息子の妻が、下野の国の城主だった宇都宮頼綱(法名・蓮生)の懇望によって作られたものである。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び年代順に色紙にまとめたもので、当時は小倉色紙などと呼ばれたていたが後になって定家が中院山荘(小倉山荘)で編纂されたことから「小倉百人一首」という通称に定着したそうです。

当時は神社・仏閣・貴族の邸宅などの襖や障子に色紙を貼ることが行われており、特に定家のような当代一の大歌人であり選者の書いた色紙ならば別邸の誉れとなると蓮生は思い、襖の色紙を定家に懇望しました。高齢の定家は中風を患いながらもこれを承諾し古来からの歌、各一首を天智天皇より順徳院までの秀歌百首を選んでいます。和歌を愛した蓮生の懇望がなかったら「百人一首」の誕生はなかったのではとも思います。

私の古くからの同級生が宇都宮市周辺に住んでおりますが、その仲間が故郷の街興しのテーマを考えたところ下野の国の五代目城主‣宇都宮頼綱公と「小倉百人一首」に繋がったという事でした。歌留多での街興しは毎年順調にすそ野が広がり、令和元年には第25回を数え参加者が700人を超え会場の体育館が満員だったそうです。

 私の推薦三句

「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」天智天皇

「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」持統天皇

「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」藤原定家


 令和3年  霜月        八 大




 
















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