嵯峨野路その9 (知恩院と増上寺)

 正面の石段を登ろうとすると目の前に覆い被さるように山門が迫り、これぞ圧巻です。

知恩院三門
知恩院 法然上人が開山した浄土宗総本山の寺院で正式な名称は「華頂山知恩教院大谷寺」と云います。法然上人が後半生を過ごし没した地に建てられた寺で現在あるような大規模な伽藍が建てられたのは江戸時代以降であります。徳川将軍家から一般の庶民まで広く信仰を集め今でも京都の人達から「ちおいんさん」と呼ばれています。

知恩院の歴史を細かく述べるのは長くなるので省略しますが、江戸時代以降に浄土宗の門徒であった徳川家康が慶長13年(1608年)から寺地の拡大を進めたのは二条城と共に京都における徳川家の拠点とすることで威勢を誇示し京都御所を見下ろし朝廷を牽制するといった、政治的な背景もあったとも云われています

増上寺三門
同じ浄土宗の大本山増上寺(東京都港区芝公園四丁目)がありますが山号を「三縁山広度院増上寺」と称し徳川家とゆかりの深い寺があります。室町時代明徳2年(1393年)浄土宗第八祖、酉誉聖聰(ゆうよそうしょう)の時に真言宗から浄土宗に改宗し寺号も増上寺と改めた。中世以降徳川家の菩提寺になる前、天正18年徳川家康が江戸入府の際たまたま通りかかった寺の住職(源誉上人)との対面が菩提寺になるきっかけだったと云われています。     (江戸城の裏鬼門との説も)

増上寺大殿本堂
徳川家威光のもとに権勢を誇った増上寺でしたが明治維新後神道国教化政策の下、半官半民の大教院神殿がおかれ参道には通常神社に建てられる鳥居が置かれたことも。また排仏主義者によって放火されたり徳川幕府の崩壊により神仏分離の影響によってその規模は大きく縮小された。また太平洋戦争の空襲によって徳川家霊廟や歌川広重の名所江戸百景にある五重の塔などが焼失し大きな被害を受けたのはご存知の通りです。(東京タワーはその代りではない)

三門とは 元来は門の形式で中央の大きな門と左右の小さな門との三つの門を連ねて一門としたものです。仏教寺院に用いられた結果、お寺の仏殿前の門を形式に関わらず三門と呼びます。三解脱門とも云われ、三つの煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)を解脱する門と云う意味だそうです。山門という呼ばれ方もありますが古い時代には山林の中に建てられていたので山門と呼ばれていたものです。また三門には一般の人が仏門に入ることを拒まない仏の慈悲心を表わすもので扉を設けないものであったそうです。

 令和3年 師走        八 大














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