嵯峨野路その8

 南禅寺と琵琶湖疎水

南禅寺三門
南禅寺の正式名称は太平興国南禅寺と号し臨済宗南禅寺派の大本山のお寺で、開山は大明国師で開基は亀山法皇である。京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で日本の禅寺の中で最も高い格式を持つ。南禅寺建立以前にこの地に亀山天皇が離宮として「禅林寺殿」を建立しそれから持仏堂を立て南禅院と名付けたのが始まりでその後に南禅寺と云う寺号に改めたのが正安年間(1299年~1302年)のことである。

建武元年(1334年)後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが足利義満が1385年に自分が建立した相国寺を五山の第一とするため南禅寺を別格として五山の上に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。この頃には南禅寺は塔頭寺院(たっちゅうじいん)を60カ寺を要する大寺院となったため、旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題にもなった。その後2度目の火災の後に応仁の乱が勃発、市街戦も広がり後の復興には多くの時間が掛かったが徳川家康の側近として「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝が臨済宗寺院を統括する役職を務め復興に努めた。
疎水トンネル

琵琶湖の水を京都へ引くことは、昔から京都の人々の願いでした。長いトンネルや正確な図面を作る技術はありませんでした。そんな中その計画を実現させたのは第三代京都府知事に就任した北垣国道でした。幕末の戦災と明治維新による東京遷都により衰退した京都の復興には「琵琶湖疎水」を建設することだ。

無鄰菴

当初の目的は田畑の灌漑、精米水車、運輸、防火、水道・・等が予定されていたが途中から水力発電が加えられ困難を極めた長期に渡る難工事でした。そんな中工事の途中でも古都の景観を破壊するとして反対の声も上がって南禅寺の三門に見物人が殺到する騒ぎもあった。また明治維新直後には上地(あげち)(民間から政府に召し上げられた土地)に遭い寺領の多くを失った為廃絶に追い込まれた塔頭寺院も少なくなかった。

對龍山荘
蹴上浄水場の完成を持って京都市の水道事業が明治45年に誕生しました。豊富な水は多様な用途と新たな価値を生み出しました。その一つが大きな庭園への引水でした。山県有朋公の別荘、無鄰菴を皮切りに南禅寺周辺には清流亭、碧雲荘などの広大な別荘ができ、疎水の水が流れる回遊式庭園が造られ貴重な空間を見せている。その多くに精魂込めて作られたのが庭園造りの名人「植治」こと小川治兵衛の存在を忘れることは出来ません。

南禅寺から山門をでて
天授庵・金地院・料亭八千代・對龍山荘の辺りは現在でも大きな区画で疎水を引き入れた池泉回遊式庭園はほとんどそのまま形を残しております。40年程前に伺った流饗院(龍村美術館)のお庭を拝見した時には紅葉の鮮やかさにこんな空間を独り占めできたことは今でも忘れられない思い出として印象に残っています。現在は真如苑が所有されています。現在15区画のお屋敷(別荘)の庭園となっていますが拝観できる処もいくつかありますので是非とご覧になる事をお勧め致します。

 令和3年 師走        八 大












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