蛇足(だそく)

蛇 口
「蛇足ですが」 と、仕事上で用いられる言い回しあります。「必要ないかもしれませんが」「言うまでもないことですが」「余談ですが」という意味で、余計な情報だけれども相手伝えておきたい時に活用できるへりくだった表現で使われていますよね

「蛇足」とは、一般的に無駄なもの」「あっても役に立たないもの」という意味で使う場合「だそく」と読むのが正しいですよね。しかしながら「蛇足」は「の足」という意味で使われる場合は「じゃそく」と読むそうです。

「蛇足」と云う言葉の意味については 、中国の楚の国の諺(ことわざ)で蛇の絵を早く描く競争をした時に最初に描き上げた者が,ないはずの足まで描いてしまったために負けたと云う故事あります。多分この画家は夢中で書いているうちに蛇ではなくて龍だと錯覚してしまい足までつけてしまったと云う、、、。あっても何の役にも立たないもので、無用の長物でもあります。

龍は空想上の動物だから誰も本物を見たことがなかったでしょう。おそらく画家は龍を描くときに蛇に足や髭が付いたものを想像したのではなかったのだろう。龍は画題に於いては定番だったはず、そそっかしい画家は描き慣れていたのだろうか。

話は変わりますが、私は以前に水道の蛇口はなぜ蛇の口と書くのか考えたことがありました。あちこちに龍神伝説が残るように水の神様は龍であり、水道というのは水源から水を引いた端末でもあります。龍の子供みたいな蛇に守ってもらうということらしいが?。神社やお寺などでは蛇ではなく龍の口から水が出るようになっているところもありますよね。中国では蛇口を水龍頭と云うそうです。                                                                                              

「蛇口の由来」

蛇口(じゃぐち)は、その形が蛇に似ているから付いた名前ではない。日本で初めて水道が開設されたのは明治20年の横浜で、道路のわきに設置された共用栓から水が供用されてたそうです。当時の共用栓はイギリスからの輸入品でヨーロッパで水の神であるライオンが水道の口に取り付けられていたのです。日本で共用栓が作られるようになると、日本や中国の水の守護神である龍のデザインが用いられ、一時は「龍頭・竜頭」と呼ばれていたが龍の元となった生き物がヘビであることから「蛇体鉄柱式共用栓」と呼ばれた。やがて共用栓が付くようにな               った際「蛇体鉄柱式共用栓」の名から「蛇口」と名付けられたと云われる。

 弥 生             八 大







どら猫

野良猫の「白」
 我が家の周りには今でも3匹の「ノラ猫」が我が物顔で徘徊をする生活をしております。近所の家庭がそれとなく隠れて食べ物を補給・・しているらしい。わが家への迷惑はもう7~8年以上前から居続けており顔を合わせても隣人としての付き合いは至って平和であります。

一年中、食料の心配がないようで日頃から大きな欠伸をして何の苦労もなさそうである。サザエさんの漫画ではないけれど「お魚咥えたどら猫」として連想をされているがどら猫の立場で考えると「さ迷い歩いているからと云って、盗み食いの常習犯だなんて決めつけないでよ!」と反論されそうだよ。   

悪者になっているが、どら猫の項目を字引で引くと「放蕩、道楽、道楽者、のら」となって、それが訛って「どら」になった・・とも。「道楽者の猫」と考えると笑えるね。猫が三味線を・・? 弾かないよね。

「ドラを打つ」は「放蕩をして財産を使い果たす」。「金尽く」を「鉦撞く」ともじり、さらに「銅鑼を打つ」とかけたしゃれだとも云うと「広辞苑」にはあるよ。野良犬はいなくなったが野良猫は相変わらず多い。いじめる人もいないから、堂々と歩いている。こんな状態がいまナンですよね?


 弥 生           八 大  
























「胡蝶の夢」

胡蝶の夢
 季節は二十四節気の一つ「啓蟄」となり寒さが緩んで春の陽気になり、土の中から虫たちが動き出す頃の季節になりました。春を感じてやがて訪れて来る3月上旬から中旬にかけての時期を指す言葉で二十四節気の一つです。「啓」と云う字はひらく「蟄」は土の中で冬ごもりしている虫達のことで春を感じた虫たちや、冬眠していた生き物たちが続々と蠢き出す・・そういう春を感じる言葉ですね。

昔の人は蝶のことを「夢虫」や「夢見鳥」と呼んでいたと云いますが、その呼び名は古代中国の思想家荘子の説話「胡蝶の夢」に由来するそうです。中国戦国時代の荘子は夢の中で自分が蝶になり、花の上で遊んでいたが、夢から覚めてみると、自分が夢で蝶になったのか、蝶が自分になっていたのかわからなくて驚いたという。 

蝶になる夢を見たけれど、本当の私は蝶で今人間になっている夢を見ているだけではないか・・・という話です。夢と現実が混じりあう幻想的な蝶のイメージは昔も今も変わりありません。また此の事は人の世が儚いことのたとえにも使われていますね。 


 弥 生              八 大







































  

「ラマダン」

ミナレットの夕焼け
 今年のラマダンは3月10日~4月8日に行われる事が決まっているそうです。と云われても何のこっちゃ・・・と思われる方もおられることでしょう。50年以上前に友達が会社の移動でイランに転勤になったことがありました。世界地図を広げて探したところ・・ありました中東ペルシャ湾の最奥部にシャプールという港町でした。早速に準備を整えて転勤先に飛び立った同輩の社員を今更のように思い起こされました。                 

国民の大多数はペルシャ人ですがクルド人なども多く住んでおり、20世紀に入ってイギリスの保護国から王国へと移り1935年に国名をペルシャからイランに変更されました。その後「イラン革命」によって当時のパーレビ国王が失脚し「イラン・イスラム共和国」が誕生した。イスラム勢力が権力を握りイスラーム・シーア派の国として、日本の面積の4倍をを超える中東の大国となった。私たち西側の国に属している国民からすると分からない事が多い国です。一年間に一カ月ぐらいの期間断食をする制度がある国であります。チョット覗いてみましょう。

ラマダンとは、イスラム教徒の義務のひとつである断食(サウム)を行う月のことで、ヒジュラ暦の第9月のことです。ラマダン期間中は日の出から日没までの間、飲食や喫煙、性行為が禁じられます。また、悪口や嘘、揉め事、欲望、も断ち普段以上に良い振る舞いをすることが推奨されています。                    今      

ラマダンの起源 イスラームの聖典であるコーランは、ムスリム(イスラム教徒)の信仰の源泉で、信条の規範として具体的に実践し五行を行う。ラマダンはその 一つです。 

コーラン
「信仰の告白」 神を信じを声に出す                                    

 「礼拝」 一日5回のお祈りをする                               

 「喜捨」 富める者は貧しい者に与える                             

 「断食」 ラマダン月は日中の飲食を絶つ                             

 「巡礼」  一生に一度は聖地に行く                           

ヒジュラ暦の9月は、(イスラム教)の聖典であるコーランが、ムハンマドに初めて啓示された「聖なる月」です。そ のため、ラマダン月にこの啓示を記念して、ヒジュラの道                     中の苦難を追体験する行為として断食が行わ                     れるそうです。

ラマダンの目的 クルアーンに示された義務の一つですがムスリム皆が同じ試練を同じ時期に共有することで、信仰をより深める目的を持ちます。お金持ちも貧乏な人も等しく空腹や渇きの辛さを味わうことで、恵まれない人々を思いやり、改めて平安の有難さに感謝し、より自分を清めようとする心を養うものです。ムスリムにとってラマダンは欲望や悪を遠ざけるとても神聖な実践なのです。また家族や知人、仕事仲間と辛さを共有することで一体感を持つことも大切な目的とされています。

この月においてイスラム教徒は日の出から日没にかけて一切の飲食を断つことにより、空腹や自己犠牲を経験し飢えた人や平等への共感を育むことを重視する。また親族や友人らと共に苦しい体験を分かち合うことでムスリム同士の連帯感は強まり、多くの寄付や施しが行われている

断食中は飲食を断つだけではなく、喧嘩や悪口や闘争などの忌避されるべきことや、喫煙や性交渉などの欲も断つことにより、自身を清めてイスラム教の信仰心を強める。ラマダーン明けの祭りには「イード アル=フィトル」と呼ばれ、盛大なものである。

最近、世界の人口が80億人を突破したそうです

 卯 月            八 大














アスパラガス

ホワイトアスパラ
 啓蟄の頃になると太陽も力強くなってきて野菜たちの成長もいよいよ出番が来たと準備を始めています。大地からすっくと立ちアスパラガスも、この時期は春芽と呼ばれ是非とも食べたいものの一つです。国産のアスパラガスは2月ごろから九州で収穫が始まり徐々に栃木・福島へ北上し6月には北海道産の出荷になってきます。

アスパラガスは、南ヨーロッパからウクライナ地方が原産地とされています。古代ギリシャ時代から栽培され、ヨー             ロッパに広がりました。日本には江戸時代にオランダ人に             よって主に葉を楽しむ鑑賞用として伝えられました。食用             としては大正時代に北海道で栽培が始まりました。

グリーンアスパラ

アスパラガスは、タマネギやネギ、ニンニク、ニラと同じユリ科の多年草で、古代ギリシャ・ローマ時代ではすでに栽培されており特別な食材として扱われていたそうです。中世では痛風に効く薬草として重宝されていたようです。アスパラガスは寒暖差が大きい気候が美味しく、北海道での生産が特に盛んで道央の上川地方が主産地となっており、名寄市、美瑛町、富良野市などで多く収穫されています。

当初は欧米への輸出用缶詰に使うホワイトアスパラガスが始まり            であったが、その後は国内でも消費されるようになり、昭和の中            頃以降はグリーンアスパラガスが主流となった
製品として出荷
現在では生のホワイトアスパラガスや調理しやすいミニアスパラガスなどが店頭に並んでいる。

栽培法の違いで、土寄せして軟白栽培した白いものをホワイトアスパラガス(白アスパラ)といい、それに対して土寄せせずに日光に当てて普通に育てた緑色のものはグリーンアスパラガスという。グリーンアスパラガスを早どりして市場に出回るものは、全体に細くて長さも短いのでミニアスパラガスとよばれている


 啓 蟄             八 大




辛抱と我慢

 「我慢」と「辛抱」の違いは何だろうか? 

公園橋の河津桜
我慢は自分がしたくないことや嫌なことを堪えること。                 辛抱は自分の為や人の為に自らの志したものを実現するための 努力をする辛さ。                 

すなわち、人から押し付けられたものであれば苦労ですが、自分が先頭に立って人の為、自分の為に困難を克服しなければならなくなれば苦労とは思わなくなりますよね。

我慢と辛抱の違い                                『辛抱』は? 将来の明るい結果を実現させるためにこらえたり耐え忍ぶこと。       それに対して、『我慢』は ?   言葉の通り。我慢(われまん)ずることです。 本当はやりたいのに止めておいたり、こらえたりすることですが人によって色々な考え方がありますね。今の時代でも『辛抱』を積極的に取り入れていくことを若い人たちに取り入れていくことが必要で大切なことであると思っております。

コロナ過が一段落しているように見えていますが少しでも前向きな言葉、「我慢」よりは今の現実を乗り越えたら、と明るい未来を考えながら、「辛抱」しながら向き合っていきたいと思っております。コロナ禍に対しても、少しでも前向きな言葉で「我慢」よりは今の現実を乗り越えたら明るい未来があるよと、「辛抱」しながらも向き合って行きたいと思います。常にポジティブ!どうせ生きるなら人生楽しく・・ね。

【我慢と辛抱の違いについて】

我慢は 嫌なことただただ、堪えること。(不満の気持ちが残る)                      辛抱は 好きなことをする為に堪えること。(その先に希望の光が見える)

我慢という言葉には 不満や我儘の気持ちが含まれる。                辛抱という言葉には 希望思いやりといった気持ちが含まれる。

我慢は 気持ちが人に向かっていく。                         辛抱は 気持ちを人と共有されていく

我慢は いずれ限界がきてしてしまう。                        辛抱は かならずや果実となっていく

我慢は ネガティブな言葉。                             辛抱は ポジティブな言葉

「我慢の先には 不満 しかないが・・・、辛抱の先には 希望 の光がある。

 

 弥 生           八 大


 

 

 




黒石寺の蘇民祭

如月の頃
千年以上の歴史がある伝統行事、岩手県奥州市の奇祭、黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)が17日夜に開かれた。御利益があるとされる「蘇民袋」を上半身裸で下帯姿の男衆が奪い合うことで知られています。関係者の高齢化や担い手不足を理由に今年で最後となるそうです。 

2008年にこんなことがありました。奥州市が蘇民祭の観光ポスターを駅構内などで貼り出してほしいとJR東日本に依頼したところ、「裸の姿が不快感を与える恐れがある」と断られ全国的に注目を集めた。

 蘇民祭は五穀 豊穣 などを願い、護符が入った麻袋(蘇民袋)を下帯姿の男衆が奪い合うクライマックスの蘇民袋争奪戦で知られている。今年の争奪戦はコロナ禍を経て4年ぶりに行われた。午後10時過ぎから約1時間、200人以上の男衆らが勇ましい掛け声を上げながら押し合い争奪戦を繰り広げると、境内は湯気が立ち上るほどの熱気に包まれていた。


10年程前に黒石寺を訪れたことがありました。門前の入り口にこじんまりとした池があり階段を上がってお参りをして境内を一巡り、そこに草むしりをしていた女性現る。何気ない立ち話から寺の庵主さんであることが分った、人口減少が進み檀家さんの都会への流出、今年はお葬式が3件しかなく寺の維持にも困惑しているとのこと、そして都市への人口流出・・・など。

お喋りが2時間以上続きましたが問題は檀家離れだそうです。今すでに結果が表れてきて延々と先祖から引き継いで来た檀家さんが離れて都会に新しくお墓を建てていく家族が多くなっている。現在、将来を含めて悩むことが多いそうです。昨年のお葬式は僅かの3軒だったそうです。どうしたら良いでしょうと云われ困ったことを思い起こしました。

如 月             八 大


立春大吉

「 立春大吉」と云うお札を見たことはあると思いますが立春と云う、季節の変わりめには邪鬼が発生すると考えられていました。古くからこの時期は万物変化が激しく不吉で、邪気が発生すると云われていました。この事から節分で豆をまいて邪気が発生すると考えられていた。


立春大吉と云う文字は左右対称で縦書きにすると表からも裏からも同じように見えます。一度くぐったものの、まだ入ってない家があると勘違いしてそのまま門をくぐって鬼は外に出て行くという。こうして、立春大吉は邪気を追い払う縁起の良い言葉として門に貼るお札になっています。

お正月のしめ飾りに東北地方では「蘇民将来」という言葉を書いていることで除災招福になると言い伝えられているものもありますが、このような説話から今でも生活に深く根差した文化が見られています。

万が一、悪い鬼が家に入ってきても、外から見えていた立春大吉と同じ文字が読めて、「まだ家の外だったのか」と勘違いして外に出て行ってしまうという言い伝えから、「立春大吉」の文字が厄除けとして使われるようになったと言われます。

節分とは季節の分かれ目・区切りを示す日。もともと「立春・立夏・立秋・立冬」の前日」が節分の日でしたが、今では立春の前日が『節分』として残っています。

節分の日付が変わるのには、この「立春」が関係しています。そもそも立春とは、日本で春の季節が始まるとされる日。現在では、太陽の位置によって決められ、「太陽黄経が315度の時刻が立春」と、国立天文台で定義されているそうだす。

地球が太陽を1周する時間は、1年(365日)とぴったり同じではありません。
そのため、今年2021年には、「立春」の時刻が2月4日に入りきらず2月3日になったため、立春の前日である「節分」も2月2日に移動したと云います。


 如 月           八 大   

                   
















如月(きさらぎ)

春はそこまで来てます
 毎年、新しいカレンダーが出回るころ年中行事の一つと称して「冬籠り」です。 この時期仲間と連れ立って岩手八幡平に合宿です、年中行事の一つとなり十年以上が続いており楽しみの一つとなっていました。そんな折でしたが人間引き際も大切だということで、一昨年に愛用のスキー道具を地元の友達に引き継ぐ。大雪の舞うゲレンデに別れを告げ一区切り。パウダースノーのゲレンデに別れを告げたのは一昨年の今日でした。

二月には如月の他に様々な別名.異称があります。 

令月(れいげつ)                            …物事を行うのに良い月で、めでたい月のことをいいます。万葉集の歌にも使われており、新元号「令和」の「令」はこの歌のなかにある令月が由来となっています。 

仲春(ちゅうしゅん)                          …初春と晩春のあいだの季節のことをいいます。それらの総称を「三春」といい初春から順に、仲(中)春、晩春と季節は流れていきます。仲春は2月頃を指します。

梅見月(うめみづき)                          …梅の花が咲く季節のことをいいます。旧暦の2月は現在でいうと2月下旬から4月上旬頃とされていました 

令月、仲春、梅見月・・と二月の別名には冬から春への季節の移ろいを感じ、暖かい日差しを浴びて草木が芽吹いていく、そんな表現が多く感じ取れますね。また、心機一転、気持ちを切り替えて「立春」という言葉があるように二月は一年の始まりとされいます、心機一転、気持ちを切り替えて新しい何かを初めて見るのも良いことですね。

古利根川の流れはこの処、澱みの状態が続いておりますが、春の一大イベントである「古利根川の大掃除」が今年もやってきます。地域の住民が御礼の意を込めて一年間の大掃除、雑草や空き缶等の不要物の回収も行われます。その後、水・草・花・鳥が一斉に舞踊り古利根川に本来の春の息吹が運ばれてきます

如 月            八 大                                  















 








中尊寺金色堂

金色堂内部
 現在、国立博物館で「中尊寺金色堂」の展覧会が開かれているので早速、会場へ顔を出しました。本展は上棟された天治元年(1124年)の建立で、中尊寺金色堂900年を記念して開催する特別展だそうです。堂内中央の須弥壇に安置された国宝の仏像11体が一堂にそろう他、嘗て金色堂を荘厳にしていた国宝、金銅の迦陵頻伽文(がりょうびんがもん)華鬘(けまん)をはじめとする工芸品の数々で世界遺産に登録される平泉の文化遺産です。

平安時代、奥州藤原氏の初代藤原清衡によって創建された平泉の国宝である中尊寺金色堂。 中尊寺金色堂は天治元年(1124)藤原清衡(1056〜1128)によって建立された東北地方現存最古の建造物だ。建物の内外は金色で飾られ、螺鈿蒔絵の漆工技法を駆使した装飾が施された絢爛豪華な姿を持つ。本展ではこの金色堂の中央壇の国宝仏像すべてを公開するとともに、金色堂の内部に入り込むような8K映像を巨大なスクリーンで上映する。ほぼすべてが国宝または重要文化財となる約50点の文化財を展示しています。

金色堂外観模型
 会場入口のスクリーンでは、原寸大の金色堂を超高精細の8KCGで再現した映像を上映。実地ではガラス越しにしか見られない金色堂の内部を仔細に見ることができる。内外を覆う金箔や螺鈿をはじめとする漆工や金工の繊細な造形などから、奥州藤原氏の栄華を感じることができますね。

金色堂の特筆すべきところはその豪華絢爛さだけではなく3つの須弥壇内に奥州藤原氏一族の初代の藤原清衡から、基衡(2代)、秀衡(3代)、のミイラと頼朝に敗れた、泰衡(4代)の首が安置されている墓所でもあります。会場では初代清衡が安置されていた金箔押の木棺や、遺体がつけていた装飾具なども見ることができます。また棟木に天治元年(1124年)の銘があり、この年が建立年とされており当時から金色堂と称されていたと云います。


如 月              八 大






 













「本阿弥光悦」とは

本阿弥光悦展
 久しぶりに東博(東京国立博物館)の「本阿弥光悦(ほんあみとうえつ)展」を尋ねました。凄い男だとは聞いていましたが江戸時代初期に活躍した大巨人でしたね。その名前からして異端者のように感じていましたが・・・。

 本阿弥光悦の名前を聞いたことがある人はおられると思いますが、彼が何者であるのかを一言で説明することはまったく難しいことです。どうしてか、それは非常に多才な人物だったからです。その奥深い才能を読み解く特別展「本阿弥光悦の大宇宙」展が上野の東京国立博物館にて始まりました。

江戸時代の永禄元年京都に生まれた本阿弥光悦は日本刀の鑑定家に生まれ書家、陶芸家、画家、蒔絵師などの多彩な顔を持つ人で多方面で活躍したスーパーマンでした。元和元年(1615)の大坂夏の陣の後には徳川家康から京都北部の鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などを率いて移住し、芸術村(光悦村)を築いた。

光悦寺垣


50代後半になった本阿弥光悦は徳川家康から京都、鷹峯(たかがみね)に広大な土地を与えられた。この新天地に職人たちを呼び集めて、芸術村として「光悦村」を運営して芸術の演出家とし頭角を現し光悦自身も創作活動打ち込んでいた。80歳で亡くなるまでの20年間を光悦村で創作活動に打ち込んだと云われています。こういう人を総合芸術家と呼ぶのでしょう。 

そのグループのリーダーが本阿弥光悦と俵屋宗達という二人の画家によって作品が作られるようになったのが琳派の始まりと云われています。      琳派の琳は尾形光琳の名前から取られたものですが琳派の起点となる人物は江戸時代の初めに京都で活躍した本阿弥光悦と俵屋宗達と云われています。


睦 月              八 大










江戸時代初期に活躍した「本阿弥光悦」(ほんあみこうえつ)は、日本刀鑑定の名門家系に生まれ、後世の日本文化に大きな影響を与えた芸術家です。書家・陶芸家・画家・茶人など多彩な顔を持つ人物であり、国宝2点、重要文化財18点の作品を残しました。その一方で有力大名にも顔が利くほどの人脈や、並外れた目利きにより若手芸術家を次々と発掘。「俵屋宗達」(たわらやそうたつ)から「尾形光琳」(おがたこうりん)へと続く、総合芸術流派の「琳派」(りんぱ)を興したことでも知られます。


総合芸術家として活躍した光悦

本阿弥光悦の事績  書道家 画家 蒔絵師 陶芸家


40代に入ってから、本阿弥光悦は総合芸術家としての才能を開花。当時駆け出しの画家だった俵屋宗達の才能を見抜き、「厳島神社」(いつくしまじんじゃ:広島県廿日市市[はつかいちし])の宝物「平家納経」(へいけのうきょう:金銀などの意匠を凝らした経典群、平家一族が繁栄を願い奉納)の修復グループの一員に加えます。期待に応えた俵屋宗達は、のちに近世絵画の巨人となりました。

また、本阿弥光悦は幅広い人脈でも知られ、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)、加賀藩(かがはん:現在の石川県)の藩祖「前田利家」(まえだとしいえ)、織部焼で知られる戦国大名「古田織部」(ふるたおりべ)といった名立たる人物達と交流を重ねたと伝えられます。






光悦寺

1615年(元和1)本阿弥光悦が、徳川家康より鷹峯の地を与えられ、一族や工匠等と供に移り住み芸術村を築きました。光悦は、刀剣鑑定のほかにも、多くの才能に優れており、芸術指導者としても活躍しました。現在の光悦寺は、本阿弥家の先祖供養が行われていた位牌堂(位牌所)があった場所といわれています。