穀雨 と晩春

 たくさんの穀物を潤す春の雨のことを「穀雨」と云いますが春の花を早く咲けとせきたてるように降る雨に見立てた「催花雨」とも呼ばれるそうです。春の雨についてこんな表現が出来るなんて日本人の感性は素晴らしいの一言です。

この時季これと並んで私の好きな言葉に「晩春」があります。春の終わりを表す陰暦三月の異称でもあります。先日古い映画「晩春」を見つけたので軽い気持ちでクリックしましたら二時間弱・・・これが名監督・小津安二郎の大傑作と云われた作品で、原節子、笠智衆、月岡夢二のお歴々のお出ましだった。作品は「父と娘」の嫁ぐ娘と父親の複雑な心情を描いていることで,昔からその評判は聞いていたが見る機会がなかった。その簡単なあらすじを紹介します。

早くに妻を亡くしそれ以来、娘の紀子に面倒をかけてきた大学教授の曾宮周吉は、紀子が婚期を逃しつつあることが気がかりでならない。周吉は、妹のマサが持ってきた茶道の師匠・三輪秋子との再婚話を受け入れると嘘をついて、紀子に結婚を決意させようとするが、男が後妻を娶ることに不潔さを感じていた紀子は、父への嫌悪と別れの予感にショックを受けてしまう。マサの持ってきた縁談を承諾した紀子は、周吉と京都旅行に出かけ再度心が揺れるが、周吉に説得されて結婚を決意する。紀子が嫁いだ晩、一人家に残る心を決めた周吉は、人知れず孤独の涙を流す。

昭和を代表する小津安二郎という名監督の作品ですがその評価は今に語り継がれていおり、日本映画の作品で一番に挙げるとしたら「晩春」を挙げる人が多くいます。こういうと年齢が分かりますが見た後にその余韻がしばらく残りますね。

 令和2年  卯月        八 大 








 接骨木(にわとこ)

 栃木、那須地方に接骨木と云う地名がありました。それは子供の頃に父親に連れられて親類のお宅にお線香を上げに行った事があった。帰り際にクモの巣状に開いている白い花を見つけたので名前を聞くと、それはにわとこ(接骨木)と云う名前だよと教えられたことを今でも鮮明に覚えている。怪我をして骨折した時に副木をして応急処置をしたことから付いた名前だと云われている。


昔は骨折した場合の治療には、ニワトコの枝や茎を黒焼きにして、ご飯粒と食酢を入れて練ったものを患部に厚く塗り、副木をあてて押
さえて熱をとったと言う。そう云う治療法があったことから、折れた骨を接ぐ薬草という意味で、接骨木(せっこうぼく)という漢名がついたと言われます。

名前の由来は、ニワトコ(庭床)からきていると言われ、古い時代には幹を薄く削って削り花(けずりばな)を作り、祭儀に供えたと言います。現代でも削り花は小正月に飾る風習があると言います。また家を新築するときには庭先に祭壇を作り削り花を飾り神事を行ったと伝えられています。

落葉低木、樹形は下部からよく分枝し高さは5M位になり柔らかい感じである。花は春のこの時期に今年の枝の先端に白く小さな花を多数つけ,夏には暗赤色の果実をつける。若葉の時期にその葉や茎を山菜として食用にしたり、利尿剤として用いられていた。

 令和2年   卯月        八 大












 山吹

 晩春のこの時期黄色い花を咲かせるのが落葉低木の山吹です。十年ぐらい前に栃木の「星野の里」で蕎麦を食べていると店の主が出て来てこちらへ来てよと手招きをしてくれました。のこのこ付いて行くと裏庭の藪の中に白い山吹が咲いていました。

これが珍しい「白い山吹」だよと自慢げに話してくれました。これは俺の宝物だよと自慢されていたのを思い出しました。黄色い山吹色は江戸時代までは大判小判を単に「山吹」と呼んでいたそうです。時代劇に出て来る場面で懐から大判を出してかじって見せている姿を思い起こしました。

ご存知の太田道灌の話
上杉氏の家宰(かさい)であった太田道灌
が鷹狩に行ってにわか雨に遭い、あばら家に駆け込むと少女が出てきた。道潅が少女に蓑を貸して貰えないかと尋ねたところ少女は黙って山吹の花一輪を差し出した。道潅は怒って帰りその近臣の一人にその話をしたところ、その者が「後拾遺集」にある後醍醐天皇の皇子の和歌に「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」と云う歌があることを伝え、「その娘は蓑一つない貧しさを山吹にたとえたのでしょうか」と云いました。

その後の話
その話を聞かされた道潅は己の無学を恥じ
、この日を境に歌道に精進し人の心の中を
理解できる人になっていったそうです。

物語の舞台になったと云われる山吹の里は
埼玉県の越生町周辺と云われ、最近では町
おこしのブームもあり賑わうそうです。

 令和2年  卯月        八 大










 牡丹

 「白牡丹と云えども紅ほの香」 高浜虚子

 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花 と美人の姿を現す言葉にもなっている牡丹は清の時代には中国の国花でもあった。新年を祝う花として中国の上流階級ではとりわけ珍重され花海棠と共に最も愛好されている花であります。

四月に入った今頃から六月にかけて咲く花の王様と呼ばれる牡丹は奈良時代に中国より渡来したもので弘法大師が持ち帰ったものとの説もあります。最近では季節に関係なく花が咲かせているのを見かけますね。古名ではフカミクサとも言われて、その花の福々しさを表したもので、花王,白王獅子、大極殿などといろいろな種類があります。花言葉としては「王者の風格」「風格のあるふるまい」と云う、まさに花の王者ですね。

日本へは奈良時代の聖武天皇の時代に渡来し吉備真備が唐からの帰途これを持って帰ってきた云われ最初は漢方薬として渡来したもので、本来はその根と皮の煎汁を腰痛、関節炎、解熱剤、止血剤等として用いられた貴重な漢方薬であったそうです。平安時代の頃からは観賞花として愛されて来ており江戸時代には愛好家が競って品種改良も相まって牡丹文化の全盛となって今に至っているそうです。

牡丹散って打ちかさなりぬ二三片  与謝蕪村
白牡丹鰐をあらわにくずれけり   飯田蛇笏
灯のうつる牡丹薄く見えにけり   正岡子規


 令和2年   卯月       八 大












 新型コロナウィルス  の言葉

太陽コロナ
此のところコロナウィルスのお陰で耳慣れないカタカナ言葉が聞かれて記憶するのが大変です。何とかならないのと、ブツブツ独り言を云っているこの頃です。
本来コロナとは、太陽の外層大気のもっとも外側にある、100万度を超える希薄なガスの層であります。太陽コロナと呼ぶこともありますが普段は見ることは出来ません。子供のころガラスの板にロウソクでススを発生させ、皆既日食を見た思い出がおありでしょう。最近ではコロナグラフと云う器具を使うことで観測が出来るそうです。

太陽神の元祖であるコロナの名が最近ではすっかり悪役の
名になってしまい世界中の人々を苦しめており困ったもんです。
そのウィルスに関する気になるカタカナ言葉が新聞紙上をにぎわせています。どうしてこうも簡単に外来語を使ってしまうのかと思いませんか?。最近特に恐怖をあおるような外来語の氾濫が気になっておりますが私なりに突き止めてみました。

その原因の一つは、パソコン語の普及により古来からの日本語がカタカナ(外来種)に押されて駆逐されて来ている途上ではないかと危惧しております。
もう一つは日本語の退廃と言葉による印象操作ではないかと思います、それは日本語による過激な言葉をカタカナ語にすることによってその意味を、より柔らかに伝えられるという印象操作ではないかと考えましたが如何ですか。

 最近のカタカナ言葉を拾いました

 クラスター
コロナウィルス 1
もともとはブドウの房の意味だそうです。群れ、集団、集落のことで集団感染のことを云っています。以前にアフガニスタンやイラン等で紛争が続きその時にクラスター爆弾が話題を呼びました。大きな爆弾を打ち放すとその中にある複数の小型爆弾が炸裂することで広範囲に被害を拡大させてしまう。無差別に殺傷する能力が高い非人道的な兵器であるとして最近は使用禁止の声が出ています。

 バンデミックス
感染症が世界的に複数の地域で同時に大流行することを「感染大爆発」と云いますが、現在まで人の世界でのバンデミックを起こした感染症は天然痘、インフルエンザ、エイズなどのウイルス感染症、ペスト、梅毒、コレラ、結核、発疹フスなどの細菌感染症、原虫感染症のマラリアなどがあるそうです。


オーバーシュート
コロナウィルス 2
検索すると新型コロナウイルス感染に関することで、感染者の「爆発的な拡大」を指す言葉として行政やマスメディアがこぞって使っている。本来こうした事態を表すには「アウトブレイク」(感染爆発というよく知られた言葉があるのに何故、わざわざ「オーバーシュート」を使ったのか?
元々は金融・証券の用語だと言われたそうで有価証券の価格の行き過ぎた変動を云うそうです。その時の適正な基準から離れたときにオーバーシュートと呼ばれ相場が過熱した今がその時です。時間経過と共にいずれは修正されて行きます。

 ロックダウン
英語の「lockddwn]からきている言葉で「都市封鎖」と云う意味合いで使われています。具体的には「対象エリアの住民の活動を制限する」ことで外出禁止などがその例です。
東京都でロックダウンが行われた場合、スーパーやコンビニなどから生活必需品がなくなってしまう可能性があります。「近隣住民による買いだめ」→「店舗の在庫がなくなる」→「都外からの物資供給が滞る」といったケースか考えられるからです。ただ、一人一人が必要以上に商品を買いだめてしまうと、他の住民が困ることになりますのでそれはやめましょう。


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 浄源寺(枝垂れ桜)

岩槻の浄源寺は近くの皆さんご存知の花の寺として有名なお寺さんです。小生もここの枝垂れ桜を知ってから10年以上も鑑賞に来るファンの一人です。
今年も咲いてくれましたが、でもチョット今年の様子は違います。昨年迄は裾を引きずるような枝垂れの姿が見られません。何故でしょう?

お寺の坊守さんに聞きましたところ、昨年庭の手入れをしていて方丈さんとのやり取りで車の出入りの際に気になるので裾の方を少し詰めてくださいと頼んだそうですが。庭師さんがハイ分りました・・・と。その結果がこの通りでした。

昨年まで見られていた方は皆さんから多くの苦言を戴いたそうです。春風に揺られて裾を引きずるような様子は何とも言えない趣がありました。ここまで詰められたとは・・・お釈迦さんでも思っていなかったので
はと云っても後の祭りでした。覆水盆に返らず、あと
三年待ちましょう。

墓地の入り口周辺にはお寺さんの好みでしょうが、端正に手入れされた木々や草花たちが私は此処よ・・
ばかり季節の順番を待ちながら開いてゆくその姿を見
ると、お守りして下さるお寺さんの愛情が込められて
いることが伝わって来ますね。


浄源寺縁起には平家の士、曽我兄弟の話から始まりま
すと書かれておりますが開基は不詳ながら約650年を遡ると言われておりましす。現在の住職さんは25代目に当たる長い歴史を持っておられるとのことです。

令和2年  弥生      八 大








































 急須 (きゅうす)

 私の古くからの友人で趣味が高じて陶芸作家となった人が居られる。毎年銀座周辺のギャラリーを会場にして展示会をやっておられるが、その作品は急須一筋であり、まさに急須に魅せられた男であります。会社を定年で退職後全くの素人から始まり繊細で手の込んだその作品は円熟味を帯びた今ではプロフェッショナル。

先月久しぶりに歓談をしながら手作りの作品を眺めて話を聞かせて戴いたが屈託のない笑顔からは苦労の話は一言も聞かれなかった。
急須とは乾燥させた茶葉を入れ湯を注いで茶葉が開くのを待ち、香りを楽しみ茶碗に注ぐものですが、出来上がったその作品は絵柄・色彩・デザインから受けるその印象はただ素晴らしいの一言であります。

本体と一体化した取っ手が、注ぎ口から見て向かって右側に突き出ているものが多いが、取っ手が真後ろにある物や、取っ手がなくて「宝瓶」(ほうひん)と呼ばれる急須もあります。宝瓶は通常の急須と比べて開口部が大きく、ぬるめの湯を入れる宇治茶などに通常使われています。

急須と土瓶の違いは持ち手部分の造りが違いますが、急須は横向きに棒状の持ち手が生えるようになっています、土瓶は蓋のあたりから、上向きに弦状の持ち手がついているのが特徴です。土瓶の方が大容量で持ちやすい形状と云えます。また急須は湯温はが70~80度°Cで淹れる日本茶向けに造られている一方、土瓶は本来直火にかけてつかうものだったそうです。そのため熱湯の中で煎じる番茶や中国茶、漢方薬などに適しているのが特徴です。


また湯沸かしに用いられているやかんは、漢字で「薬缶」となりますが、元来は薬湯を煎じるための器具でありました。そのため容量が大きくなっています。急須も土瓶も英語ではティーポットと呼ばれている。

「急須」は何故きゅうすというのか?
急須の原型は古代中国に発明され、茶を飲む習慣がある文化圏では古くから使用されてきたそうです。中国の唐音から「きびしょ(急焼、急尾焼)」と呼ばれ、急焼の「焼」は湧かすの意味があり「急に湧かす」からこの名があったそうで中国語読みで「キッスヤウ」が「キッス」または「キウス」となったと言われているそうです。日本では江戸時代の後期に上方から江戸に伝わったものでその音にあて字をして「急須」となったと推測されるそうです。

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 オキザリス

 三軒先のお宅の庭先に黄色い雑草がさいている。その名はオキザリスと云い日本ではミヤマカタバミと呼ばれる在来種でありますが世界に広く分布しておりその種類は外来種が帰化したものを含めると800種類もあるそうです。その形はロゼット状のものや、低木状のもの、地中に球根(宿根)を持つもの、多肉植物に近いものなど様々な形状があるようです。

花は夜間や雨天には閉じていてお陽様の日差しを受けて細かな花ですが盃状やロート状に大きく開きます。満開の時は株を覆うように咲く様子は見ごたえがあり人目を引きつけます。葉はクローバーのような3小葉のものが多いが、4小葉のものや5裂にになるものもあります。栽培されている物では四季咲きタイプ、夏は休んで秋から冬にかけて開花するタイプ、冬期に休眠して春から夏にかけて咲くタイプに分けられるそうで初冬から花の少ないこの時期に咲くので皆さんに可愛がられています。

この頃は近くに腰を下ろし細く棒状になっているオキザリスに話しかけると午後の陽を浴びるころには何と花びらを目いっぱい開き満足そうな姿は可愛いもので、更に夕方には花びらを閉じてとんがったまま素知らぬ顔で朝までダンマリを決めている。よく観察をして花の開く回数を調べてみると何と8日間も「むすんでひらいて」をやっていたのでビックリです、たまにはゆっくり休んでもいいのにと声をかけることも。自然の営みとは言え有難うと言わずにはいられなかった。

とは云っても雑草なのでその繁殖力は目覚ましいものがあって、安心していると蔓延られて大変なことになることもあるそうで可愛いからと安心してはいけない、近くの植物を駆逐し隅に追いやり消滅させてしまうこともあるそうです。

そう云われているうちに、春の草花たちが例年通り賑やかに咲き始める頃になるといつの間にか存在が忘れられてしまい時には畑を耕す人たちに雑草として処分されてしまうことも覚悟しなければならない。実はガーデニングを楽しむ人たちの間では大敵であり除草薬を撒かれて駆除されているのが実情でもあります。所詮私は雑草でありますから。

カタバミ 
学名をカタバミ属と呼ばれ小柄な多年草で地下に鱗茎か宿根を持つ。また真鍮の鏡や仏具を磨くためにもちいられたことから別名「鏡草」とも呼ばれた。またスペインやフランスではカタバミを「ハレルヤ」と呼ぶことで「喜び」の花言葉を持つ。
また戦国武将で有名な長曾我部氏の家紋に使われているが繁殖力が強く、なかなか根絶させることが出来ないことから「子孫繁栄」に通じるとされるために戦国大名が家紋として用ていた。

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 ビヨンドミート

 このところ「ビヨンド・ミート(beyond・meat)」と云う言葉をあちこちで聞かれたことはありませんか? 「革命的な代用肉」

アメリカ・カルフォルニア州にある会社でビヨンドミート社が開発した、植物性のお肉のことです。近年、動物愛護や環境保護、自身の健康などの理由から、ベジタリアン(菜食主義者)やヴィーガン(完全菜食主義者)を実践する人が増加しています。イギリスでは、実践する人が170万人もいるというデータもあるようです。


今、世界的に「代替肉」が大流行の兆しを見せています。代替肉とは、その名の通り、豚肉や牛肉、鶏肉といった動物の肉を使わず、植物などの別の素材で代替したものです。この代替肉について、特に菜食主義者の拡大、環境面の配慮などから、急速にその市場が拡大しつつあります。その代替肉のトップランナーというべき存在がビヨンドミートです。肉を代替しようという動きはこれまでもありましたがその構成要素は植物由来のタンパク質であるエンドウ豆、ココナツオイル、玄米、ジャガイモ、ニンジン等の素材によって「肉」に置き換える仕組みです。

さらに、ビヨンドミートは味だけではなく、見た目にもこだわっており、販売される状態はなんと生肉のような見た目となっていまり、この状態から火を通すと、肉汁のような油を出しながら褐色に色づいていくというのです。この見た目から、世界で初めて精肉コーナーに並んだ代替肉にもなったといいます。最初の感想は、これ本当はお肉じゃないのと誰もが疑ったそうです。

「本当は肉が食べたいんじゃないの?」「食べたいのに我慢してしているなんてばかじゃないの?」などと揶揄したい気持ちも分かりますが、脱肉食の動機がそもそも肉や魚が食べたくなくなったからではなく、肉の美味しさを捨ててでも諸問題の悪化に加担したくないところにあるケースも多く、これが菜食主義者が植物肉を欲しがる理由の一つだからではないかとも思われます。

肉食や畜産に関しては、これまでも現在でも様々な観点から多くの問題が指摘されており、ハーバード大学の研究チームは赤肉や加工肉の摂取量が増えると死亡のリスクが高まるとの報告もあるそうです。また畜産業から排泄される温室効果ガス削減や、気候変動や地球資源など問題、動物愛護の観点からも植物肉への移行が進むとみられる。現在のわが国も急速にその方向に進んでいくものと見られます。

ところでビヨンドと云う言葉ですが「死後の世界」「超越」「〇〇の彼方に」と云う意味だそうです。いろいろな意味を持つ単語ですが、使い方によってかなりニュアンスの違う言葉ですね。手の届く範囲ではない別の世界、向こう側から来た、遥か彼方からやって来た等を意味するニュアンスで使われるそうですが、意を介すると異次元からの来訪者とも感じられますね。

 令和2年   弥生         八 大




















 雨水の頃 草木萌え動く

  日本には昔から、太陽や月のめぐりを季節や月日などを知る手掛かりにしてきました。地球が太陽のまわりを一周する時間の長さを一年とするのが太陽暦です。
一方旧暦では新月から次の新月になるまでを一か月とするのが太陰暦です。明治五年に改暦の詔が出されるまで長い間したしまれてきた昔ながらの日本の暮らしの暦です。

季節には太陽暦の一年を四等分した春夏秋冬の他に二十四等分した、二十四節気と、七十二等分した七十二候という、細やかな季節を感じ取り、農業を中心とした生活を営んできました。七十二候の中には「桜始開く(さくらはじめてひらく)」や「雪下出麦(ゆきわたりてむぎいずる)」「熊籠穴(くまあなにこもる)」など、自然現象をそのまま名前にしたものが多く、生命を身近に感じることが出来るものです。

二十四節気、七十二候のその先に私は自分の言葉として雑記を加えたい。あちこちに芽吹く草花、春に先立って芽吹く庭木、初物をつまむ香気、その時の気分で記す雑記を書き留めることこれも又楽しい。

次第に和らぐ陽光の下、草木が芽吹きだすころに冬の間に蓄えられていた生命の息吹が外に現れ始めるころが暦でいう雨水の頃ですね。
気が付けば菜花の黄がそろそろ目に付くころ、花開く前のつぼみはほろ苦くその瑞瑞しさは春の走りを感じさせます。

この時期仏壇には毎年恒例のまだか細い桃の花が申し訳なさそうに活けられており隣にお雛様の来るのを待っておられる感じです。
ひな祭りには欠かせない蛤のお吸い物もこの時期食材の名脇役である、菜花との組み合わせは何処からも異論をはさむ余地はないだろう。

雨水のこの時期降る雨を、木の芽お越しと云って植物が花を咲かせるための大切な雨で木の芽が膨らむのを助けるように降るからその名で呼ばれたという。植物にとっては一雨ごとに春が来ることを感じます。こんな時にも私が日本人に生まれて良かったなあと思える季節です。


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 沈丁花(じんちょうげ)

 この時期何処からともなく沈丁花の香りが漂ってきていましたが、今年は何と多くの皆さんがマスク姿が目につきますので匂いを感じない人もおられるかとも思われます。そうですコロナウイルスの話題で世の中持ちきりですね。けれども微かではありますが香って来ておりますよ。沈丁花が咲けば、いよいよ花の季節のスタートです。

高浜虚子の句に
「娘(こ)の庭を 仮の住まいや 沈丁花」があ
ります、親と子の関係が読み取れていて私が昔から好きな句の一つです。その虚子の実子の娘さんが星野立子でやはり沈丁花の句を詠んでおります。
「一歩行き 一歩戻りて 沈丁の香」
「沈丁花 どこに春かと 足を止め」 

沈丁花は中国南部からヒマラヤを原産とするジンチョウゲ科、常緑性の低木で室町時代の中ごろに日本へと渡ってきたようです。2~3月にピンクや白の花を咲かせることから春の季語としてよく詠われています。葉は先端がとがった楕円形をしておりつぼみは濃紅色であるが、開いた花は淡紅色でおしべは黄色で強い芳香を放つ。

金木犀(キンモクセイ)や梔子(クチナシ)と共に、三大香木として古くから親しまれて来たように花が咲くと甘い香りは香水としても利用されており、気分を落ち着かせる効果もあるそうです。

名前の由来 
調べてみると沈丁花と云う名前は、香木の「沈香」のような香りがしてクローブというスパイスで知られる「丁子(ちょうじ)」に似た花をつけることに由来するそうです。

 令和2年  如月      八 大
















 お水取り

 古都奈良に春の訪れを告げる東大寺二月堂のお水取りが間近かに迫りました。東大寺お水取り修二会は天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁僧正の高弟、実忠和尚が創始された。以来,一度も切れることなく今年で1269回目を数えるそうです。修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)法要と云いますが、十一面悔過とは、私たちが日常に犯している様々な過ちを二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔することを意味します。 

修二会が創始された古代では、国家や万民のためになされる宗教行事を意味した。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民豊楽など、人々の幸福を願う行事とされた。
この法会は現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もともとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会と云う意味を込めて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。

お水取りでは本行を行う練行衆の道明かりとして、大松明を持った童子(どうじ)が練行衆に付きます。その為お水取りはお松明(たいまつ)とも言われています。お松明は本行が行われる3月1日から14日まで行われ、12日・14日以外は19:00に大鐘が撞かれ、それを合図に行われます。ちなみにお水取りのお松明は通常10本だが、12日は11本になります。12日は通常の松明(長さ約6~8メートル・重さ約40キロ)よりも大きな籠松明(長さ約8メートル・重さ約70キロ)が用いられるそうです。

また12日の夜、お水取りの井戸は閼伽井屋と云う建物の中にあり二月堂との間を三往復してお香水が内陣に納められるもので、そのことからお水取りと呼ばれています。大松明から飛び散る火の粉によって映し出された光景は寒い中でしたが30年以上もたった今でも鮮明に思い起こすことが出来ます。

 令和二年  如月         八 大












 八幡平の冬ごもり

 東北の名峰岩手山の麓に抱かれた八幡平(はちまんたい)の地は、小生が還暦を過ぎたころから仲間と連れ立ってこの時期恒例になっている冬ごもりの地でもあります。今年の冬は異常気象の暖冬と云われますがその中でも最たるもので雪の量が少なく道路の地肌が見えるという嘗てない異常であります。

この周辺には八幡平リゾートスキー場をはじめ安比・雫石・網張などの大型のスキー場があり毎年冬ごもりと称して温泉とスキーを楽しんでいました。この時期の一週間ほどは下界との交流を離れⅠ年間を振り返るというリセットの時でもあります。

今は町村合併で八幡平市となっておりますが、この地、松尾村は明治の初めに硫黄鉱山として発展したのが始まりで嘗ては雲上の楽園として東洋一の硫黄鉱山として短い期間ではありましたがその名を馳せたことがありました。

硫黄はその昔、火薬や肥料、マッチなどの製品として使われておりその生産高は国内の三分の一を誇り「東洋一の硫黄鉱山」と呼ばれていました。鉱山の発展と共に陸奥の荒野と呼ばれたこの地は明治の終わりから昭和の中ごろにかけては従業員15,000人余りが暮らす一大鉱山都市になって、こんな山の中ににも関わらず学校や病院、映画館を備えており鉄筋コンクリートのアパートも立てられ急激に発展したそうです。

しかし鉱山から流出する強制酸性水が公害問題となり対策として早急に中和処理施設を造って対応したが硫黄製品の需要低下により昭和の47年には閉山に追い込まれて急激な過疎化が進みました。その後今度は冬季オリンピックの開催等で急激なスキーブームの到来があり追い風を受けてはいたが長く続かず過疎化に拍車がかかっているようです。
その地に建てられた不似合いなアパートの建物は現状を残したまま廃墟となってその姿を残しています。

こんな話を聞きかじって纏めてみると何処かの国の話かと思いたいが、現実に晒されているこの地の人達を近くに見ていると何かに翻弄されているようで何とも言えない気持ちになってしまいます。一区切りついた今年で冬ごもりも卒業しようと考えている我が身です。

令和2年   如月        八 大











 リビングウィル とは

 先週ある仲間の集まりでリビングウィルと云う大変貴重な話を聞く機会がありました。
回復の見込みがなく、すぐにでも命の灯が消え去ろうとしているときでも、現代の医療ではあなたを生かし続けることは可能です。人工呼吸器をつけて体内に酸素を送り込み、胃に穴をあける胃ろうを装着し栄養を摂取させます。ひとたびこれらの延命措置を始めたら、はずすことは容易でない。生命維持装置をはずせば死に至ることが明らかですから、医師が外したがらないことになります。「あらゆる手段を使って生きたい」と思っている多くの方々の意思も、尊重されるべきことです。

一方でチューブや機械につながれて、なお辛い闘病を強いられ、「回復の見込みがないのなら、安らかにその時を迎えたい」と思っている方々も多数いるそうです。「平穏死」「自然死」を望む方々が、自分の意思を元気なうちに説明・理解・同意)を書面にしておくこと必要です、それがリビングウイルです。「生前意思」とでも訳すのでしょうか。

いわば「いのちの遺言状」です。「自分の命が不治かつ末期であれば、延命措置を施さないでほしい」と宣言し、記しておくのです。延命措置を控えてもらい、苦痛を取り除く緩和に重点を置いた医療に最善を尽くしてもらうことを望みます。もし、意に沿わなくなった場合、いつでも解約することが出来るそうです。
最近あまり聞かれなくなった言葉に尊厳死と安楽死がありますが非常にデリケートな問題なので法制化は難しく、いずれも日本国では認められてはおりません。日本でもリビングウィルと云う制度を確立して行こうとの機運が高まって来ているそうです。


 尊厳死とは 人間が人間としての尊厳 を保ちながら死に臨むことであり、インフォームド・コンセント(医師と患者との十分な情報を伝えられた上での合意)のひとつとされる末期ガン患者など治癒の見込みのない人々が、どれだけ人間らしい生活や自分らしい生活を送り、人生の幸福感を味わいながら迎えることである。
日本では事前に本人による指示書が準備されていても、治療を止めたことで、親族などが
ら殺人だと訴えられる可能性がある。尊厳死のための法律がないため、当事者本人が尊厳死を事前に希望しても人工呼吸器を取り外すことはできないという声が延命治療の現場では圧倒的に多いそうです。
 安楽死とは 死期が迫っている患者に耐え難い肉体的苦痛があり、患者が「早く逝かせてほしい」との意思を持っていることが明らかな場合、医師が積極的な医療行為で患者を死なせることを安楽死と呼びます。延命措置を行わないこととは、明らかに異なります。日本では患者を安楽死させた事件が有りますが、いずれの場合でも医師の有罪判決が確定しています。欧米などでは、この安楽死を合法的に認めている国・州がありますが、日本尊厳死協会は安楽死を支持していないそうです。

 令和二年  如月        八 大










春日部にも剣豪がいた



春日部に剣豪がいた

春日部市有形文化財の楼門(仁王門) 時は幕末、武州多摩出身の近藤勇や土方歳三が新選組で活躍していた頃、春日部にも剣豪がいました。その名は逸見思道軒(へんみしどうけん)と云い甲州武田氏の末裔で武士から帰農して現在の春日部市藤塚で代々名主を務めていました。

思道軒は幼少のころから剣術を好み、真似事をして遊んでいたと云われていますが、長じて越谷の新道無念流中村道場、次いで久喜の同流宗家戸賀崎道場で本格的に剣術を学んでいたと言われています。免許皆伝を得た後、関東各地で武者修行に励み、郷里である藤塚に道場を構えました。農事に精を出すかたわら近在の商家や農家の子弟に剣術を指導し、一時は門弟の数は三百人を超えて隆盛を極めたと伝えられています。

その頃に小淵観音院に「逸見思道軒の奉納額」が二十年ぐらい前までは飾られていたことを記憶していますが、雨風による損傷が激しく音読不良のようでした。その後に
調査したところ内容が分かったということです。

江戸時代の後半には、打ち続く飢饉などの影響で無宿
物や博徒などが横行するようになり社会不安が広がり
ました。特に天領や旗本知行地が散在する関東では、大名領に比べて統治が緩く治安が悪化していました。武蔵の国では大名領はごく限られており、大半は天領と旗本知行地で、春日部の区域では天領、岩槻藩領、寺領、旗本知行地が複雑に入り込んでいたそうです。
こうした社会情勢を反映して、十八世紀後半ごろから冨農層の間で自衛手段として剣術に対する関心が高まっていたそうです。

しばらく前から旧家の古老から三本木公園の近くに思道軒の碑があることは聞いていましたが市道の際に堂々とした顕彰碑が建っているのを見つけました。家並みを改めて見返ると通りの向こうから竹刀の響きが
聞こえてくるようにも感じた。の地にも立派な偉
人が居られたことに考えを新たにしました。

令和二年   睦月          八 大












チバニアン ?

 チバニアンの地を訪ねて千葉県の養老川渓谷に行ったのは昨年の春であった。もみじの頃には多くの観光客が紅葉狩りを楽しむ観光客が多いそうですがこの時期は看板はあるものの静かな山里でした。近くの看板に 養老川流域田淵の地磁気逆転地層 (国指定天然記念物)があった。

今朝(1/17)のニュースで国際地質科学連合の理事会で約77万4千年前~約12万6千年前の地層「千葉セクション」が示す地質時代の名称が「チバニアン」に決定したとの発表があった。地質時代の区分を決める「国際標準模式地」(GSSP)日本の地名が認定されたのは初めてである。チバニアンとは「千葉の時代」を意味する。
今後は世界で72カ所目のGSSPとして、「ジュラ紀」「白亜紀」などと同様、地球の地質時代の名称として使用されるという。


地層のでき方 この一帯の地層は、水深数百メートルで形成された海底堆積物が大規模な地殻変動によって隆起して陸地となり、それが養老川の浸食によって露頭地層として現れたもので泥や砂が固まって岩石化したもので比較的柔らかいものです。
地質年代区分の境界線にあたる 地球の歴史46億年のうち比較的新しい約77万年の更新世前紀と中期の地質年代境界にあたるそうです。この年代の海底堆積層が陸上でみられるのは世界的にも極めて珍しいことだそうです。
地磁気逆転の証拠 地磁気は過去に何度も逆転を繰り返しているそうでこの地層中の鉱物を分析した結果、およそ77万年前に最後に逆転した痕跡が確認できている。地磁気逆転のメカニズムや逆転によって自然環境に与える影響など、まだ分かってないことが多いためこの地層には、将来の科学研究の重要な鍵が含まれているようです。
白尾火山灰層 養老川沿いの露頭には、約77万年前の古期御嶽山が噴火した時の火山灰が見られます。露頭付近の地名にちなんで白尾火山灰層と呼ばれています。堆積の厚さは2~3cmですが、上下の砂泥質の地層とは容易に識別でき、地質年代区分境界を視覚的に分かりやすく示す指標となっています。
海と陸の化石 この地層中には、海中の有孔虫化石・貝化石(軟体動物などが海底を這った跡)・生痕化石・陸上の花粉化石、などたくさん含まれているため、それらを分析することで当時の自然環境の移り変わりを知ることが出来るそうです。

写真でもわかる通り岩盤は滑りやすく手すりにつかまって降りていくと不安定この上ない。地質調査段階の痕跡が残っており、ここで77万年前に地球の南北の磁場(地磁気)が逆転した時期があり地球史上最後に逆転した時代とされている。
世の中には不思議なことがあるんですね、南北の磁気が逆転したことも不思議ですがそんなことが今の時代に証明が出来るなんて考えると目が回りそうですね。これからはこの地が世界のチバニアンとして賑わいが増すでしょう。

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