女郎花(おみなえし)

 ようやく秋らしい気候になって来ましたね。燃え立つような紅い「彼岸花」の側に控えめな黄色い「女郎花」(おみなえし)がどこか儚げでチョット愛らしい姿です。秋の七草の一つとしてお馴染みの花ですが、その花言葉は「約束を守る人」「美人」「はかない恋」と3種類あります。

女郎花の物語の中では愛し合う二人の男女の姿が描かれています。すぐに迎えに来るとの約束をしたまま足遠くなってしまい、それを恨んだ女が身を投げてしまいます。その身を投げた女の塚から女郎花が咲き、それを知った男もその同じ場所で命を絶ちました。「約束を守る人」と云う言葉の重みが感じられる物語です。

「美人」と「はかない恋」は、女郎花の咲いている様子から、細くてすらっと伸びた茎に華麗な小さな花を咲かせるオミナエシと、どこか人恋しそうに寂しげに秋の風に揺られる姿が繊細な女心をくすぐるように感じませんか?

「女郎花」言葉の由来                            今でこそ男女平等をの世の中になっていますが、その昔は男女平等ではありませんでした。男性が優位に立っていた頃、男が食べていたと云われている「男飯(おとこめし)」は白い米だったのに対し、女性が食べていたと云われる「女飯(おんなめし)」は黄色い粟ご飯でした。そのオミナエシの花姿そのものであり、今でもその名前が残って付けられております。

 令和3年  長月      八 大 




桔梗の花

 桔梗の花

秋の七草の一つ桔梗は「ききょう」と音読みし別名を「きこう」とも呼んでいた。「更に吉」(さらにきち)という語呂に縁起を担いだと云う説もあります。花の原産国は日本と云われていますが朝鮮、中国にも広く自生しており身近かに愛されておりますね。紫と白の清楚な花を咲かせますが秋彼岸のこの時期、昔は野原でも良く見られましたが万葉集でも朝顔の花として読まれていたそうですよ。

開花直前の花を見ると丸く膨らんだ状態が本当に面白いね。これは開花前に花びらが互いの縁でくっついたまま膨れていくため蕾の時は風船のようにふっくらとして可愛らしく見え何とも言えません。     紫のふっと膨らむ桔梗かな 正岡子規

昔から武士に好まれたようで、家紋として図案化されたり、江戸城を囲む11の門の中に内桜田門がありますが通称を「桔梗門」と云っています。江戸城を造ったと云われる太田道灌の家紋であり明智光秀の使っていた家紋でもあります。

こんな話もあります。 戦国時代に天下統一を果たしたた織田信長が明智光秀の謀反(本能寺の変)によって殺害されましたが、信長の子孫に繫がるフィギヤスケート選手の織田信成さんは、今でも桔梗の花を飾ることはしないそうです。明智光秀一族の家紋である桔梗の花であるからとのこと。

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「人生」って速い!


 「紺珠」の中にこんなメモが

 夢中で駆け抜けた10代

    将来を真剣に考えた20代

       人生の分かれ道だった30代

      信じた道を迷いながら突き進んだ40代

            残り時間を意識して選択した50代

               自分と云うものを確立し始めた60代

                      我れ心の欲するところに従う70代

 どの年代もあっと言う間に過ぎました、行きたい処があるなら早く行っとく事だ。

   逢いたい人がいるなら会っておく、やりたい事があるなら全てやることだ。

     人生は思っているより短く、いつ終わるのかも分からないからだ。

        私の歩みは遅いが、歩んだ道を引き返すことはない。


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ジャクソンホール会議

 ジャクソンホール会議 ❓ 

                                                                こんな言葉聞いたことありませんか。先月27日、米国連邦準備理事会FRBパウエル議長のリードによって、世界の金融界のメンバーによる講演会がコロナ禍の為テレワークで行われていました。世界の景気を支える金融政策の市場から主に米国債を買い入れる「量的緩和」規模の縮小について年内開始を前向きに考える見解を示した。一方事実上の0金利政策の解除について慎重で拙速な政策変更を避ける姿勢を明確にした。

米国ワイオミング州にジャクソン渓谷がありますが人口僅か10,000人程の小さな街でありますがフライフィッシングで有名なところであります。近くには有名なイエローンストーン国立公園があり近くの川で盛んに行われていたそうです。FRB会議の期間前後には参加した人たちや一般の人達も大勢がフィッシングに興じて賑わうそうです。

そもそもの始まりは1982年8月避暑地のジャクソン渓谷における米国経済人の小さな勉強会として始まったものが時代とともに国際的にも重要視され夏の一大行事になってきている。それ以来40年、毎年開かれておりメジャーな国際会議になっています。仕事を通じて趣味のフィッシングも楽しめ交遊も図れるなんて・・何とも優雅で羨ましいですね。働きバチの日本人も多いに見習いたいものですね。

ご存知のスイス冬のリゾート地で提唱されて始まったダボス会議もありますが、こちらはFRB議長だったボルカーさんが1971年に提唱したフォーラムで世界の金融界の集まりであります。世界的な国際会議などは楽しいことも出来るような集まりですが日本でのそれとは程遠いことが分かりますね。

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処暑の候

暦の上では「処暑の候」に入りましたね。今年は連日の異常な暑さが 続いておりますが暦の上では二十四節気の一つ処暑 (8月23日~9月6日迄の期間)に入りました。処暑と云う言葉はずい分控えめな言葉で「処」には落ち着くと云う意味があるそうで、暑い陽気が停止し初めて暑さが引き締めに入っていく頃と云う意味です。気がつくとヒグラシ蝉の声があり夕暮れが早まって来たことを実感しています。

でもあまり呑気なことを云っている暇はありませんよ。この時期お米農家にとっては最も重要な節目の、二百十日・二百二十日と云う台風に供えなくてはなりません。最近では台風の被害に加えて「線状降水帯」とか云う新手のゲリラ豪雨が出現して大災害となっております。これは世界的な異常気象の出現だと云われますが気候の安定していると思われていたヨーロッパ周辺にも洪水が出ており、そのメカニズムを掴むことは大変困難であるそうです。

一方自然災害だけではございません秋の実りに感謝する楽しみな盆踊りの季節に入り日本の各地で行われます。なかでも9月1日~3日にかけて行われる越中富山の「おわら風の盆」には度々お邪魔しておりました。越中おわら節の哀愁感に満ちた旋律に乗って編み笠姿の女踊りと勇壮な男踊り、哀調溢れる胡弓の音色が忘れられないものとなっています。昨年はコロナ禍の為中止になってしまいましたが、今年も残念ながら中止との連絡が入ってきました。

例年ですと秋の観光シーズンもこれから始まるところですがアマビエさんの威力も及ばず悪いコロナの居座りによって自粛の継続が強いられており流石に閉口しますがここが我慢のしどころです。我々だけでなく世界中が自粛を強いられていることを思えば何のこれしきです。菅総理の云われる灯りはまだまだ見えていませんが必ずや終息は来ます。ここが頑張りどころですね!

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百日紅(さるすべり)

 先週、お盆のお詣りに檀家のお寺さんに伺ったら今年も「百日紅」の花が迎えてくれました。もう何十年となくこの道でこの時期に出会っていますが最近は同じ紅色がより鮮明に見えることに気がつきました。百日紅は変わっていないので自分の心が変化しているのでしょう。何故なのか分かりませんが・・・不思議な感じがします。

百日紅の名前の由来は唐の時代から宮廷に植えられていますが、この時期次から次へと百日間にも亘って花を咲かせているので、百日紅(ひゃくじっこう)と呼ばれるようになったそうです。また「さるすべり」の語源は日本独自のもので成長すると高さが10ḿ近くにもなり幹がつるつるして滑りやすいので「木登りが得意なサルでも滑って登れない」という比喩でこの呼び名になったと云われています。

原産地は中国の南部ですが今では東南アジアからオーストラリアにかけて広く分布しています。樹高は7~8mの落葉樹でお寺の他公園や街路樹として植えられており小学校の校庭などにも見かけます。多いのは紅色ですが白色や濃いピンクも見かけますね。花をよく見ると、ふちが縮れた小さな花がまとまって穂のように踊っているように咲いていますよ。

花言葉としては雄弁、愛嬌、不用意などいろいろありますが「雄弁」は枝先に花が群がりサルスベリの華やかな咲きっぷりに由来すると云われます。また花をこすると葉や花が揺れ、盛んに話しているように見えることからその名が付いたとも云われています。

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高竿灯籠(たかんとう)


今年は久し振りに新盆のお詣りに 故郷の友人宅を訪れたところ子供のころ見かけた高竿灯籠が庭先に掲げられていた。みるみる子供の頃に想いは繋がり見上げてみると、しみじみとあの頃の懐かしさが蘇ってきました。

お盆に先祖を迎えるための高竿灯籠はかつては近所の共同作業で作っていたそうですが手間も多くかかり最近では掲げる家も流石に減ってきているようです。7ⅿと2ⅿの竹を十文字に組んだ高竿灯籠に亡くなった人の年の数だけ結び目を作っていくと云う。イボ結びと云うほどけない結び方で、地面に立てた先端を除く3か所の先端にわら縄が結ばれ、ヒバの葉が飾られる。そして横木の先端に灯籠を付け8月1日の夜までに掲げられると云います。

今回友人宅では87個の結び目の付いた高竿灯籠が亡くなった人の眠る墓地に向けて掲げられるとこれを目当てに戻ってこられると云います。死者の霊を迎えるために高々と灯籠を掲げる風習は古く、鎌倉時代の公家であった藤原定家の日記「明月記」には、京都の町で掲げられた記述が残っているそうです。こんな風習もわずかに那須塩原市周辺に残っているようです。

また、ご先祖を迎えるために設ける自宅の盆棚は精霊棚や先祖棚とも呼ばれ、ご先祖さんが帰ってくる13日の朝までには仏壇のまわりに竹で組み上げ、しめ縄、真菰縄、ワカメ、ホウズキ、ナスやキュウリ等で作った精霊馬などを飾りお花を添えるとできあがりです。ご先祖様が帰られる16日には精霊棚を墓地に持って行きお線香を焚いて先祖を送り出せばお盆の行事が終わりになります。

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田子町(たっこ町)の ニンニク

最近コロナ禍自粛の暗雲は急激に重くなっておりますがスーパーへの買い出しにも歩くようになり、いろいろな発見があります。 子供の頃体にイイからと、時どきニンニクを食べさせられたことがありましたが、あの臭い匂いにはなじめませんでした。最近では失われた精力拡大のために好んで食卓にあります。

そこで気つ”いたことですが最近ではネットの袋売りの中国産ではありますがニンニクが何と398円とあります。隣の棚の田子町産はひと玉が700円との違いは何なのか、わからないことが多いこの頃ですが、
それはニンニクでも品物が違うという事らしいです家庭の主婦ならすぐわかることですよね! ここで思い出したことがありました。

20年程前に岩手の天台寺に寂聴さんを訪ねたことがありましたが、すぐ近くに「ニンニクの町・田子町」があることを聞き好奇心旺盛な小生はすぐに向かいました。車で僅か15分の処で岩手の県境でニンニクの形をした小さな町で、大きな看板が出ていました確か今思い起こすとその当時はひと玉200円ぐらいの値段が付いていた記憶がありました。

道の駅の近くでニンニクの話を聞きました。昔は農閑期にな
ると男たちは東京に向かって当然のように皆さん出稼ぎに行
った時代がありましたよ。そんな中、村の衆が集まって何と
かこの寒村状態から自立するために頭を寄せ合って何度も何
度も話し合いをしたそうです。冬場の中国・満州のような寒
さに耐えられる物はないかという事で纏まったのが「ニンニ
ク」だったそうです。冬の寒さがニンニクの甘さを引き出し
ます。
 
それから年月を積み、品種改良を重ねた結果が今に至ってい
るそうですで、今や質量ともに日本一のニンニク生産王国
なりました。とかく値段の違いばかりが強調されがちですが
滋養と強壮、健康増進に良く安心して食べられるニンニクは
手元に欠かせないものとなっております。

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案山子(増田新田)

 増田(新田)の中の一本足の案山子 ♯ 天気の良いのに蓑笠着けて・・・  

  真夏日の今日、春日部市増田新田の田んぼの小道に大勢の案山子が勢ぞろいして私を迎えてくれた。地域の村おこしの為に地元で活躍しておられる仲間たち(彩幸17期等・・)が寄り集まって製作されたいずれも力作が並んでいました、長閑な雰囲気がいいですね。今年はコロナ感染症対応の為自粛が叫ばれており・・?その結果が作品の多さに現れたものと思われます。  

「かかし」の語源は「嗅がし」ではないかと云われます、かかしは大切な稲作を守るために、古くは髪の毛や魚の頭などを焼き、串にさして田んぼのあぜ道に立てて、悪臭で鳥や獣どもを追い払っていたことから「かがし(嗅がし)」と呼ばれたものがかかしとなったものと云われています。

民間習俗の中で「かかし」は田の神の依り代(山の神)であり悪霊を祓う効用が期待されていたようで、蓑や笠を付けることによって神や他の地域からの来訪者であることを示しているとも云われます。見かけだけは立派だが、ただ突っ立っているだけで何もしない人を「かかし」などと評価することがあるが農耕社会全体からすると間接的には地域共同体の保護者であるとも言えるのではないかと思えます。


もうそろそろ、私達もただ突っ立ってばかりいないで自由に歩きたいですね!そう云っていたら今埼玉の感染者は1,036人の知らせがありました。


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蓮の花

 春日部市内牧にある黒沼公園ではピンクとホワイトの「蓮の花」が見事に開花しており、見学者が朝早くから多く訪れシャッターを切っておりました。日本では花と云えば「桜」と云われますが、お国柄インドの国民は蓮の花が大好きです。

蓮の花は日本では古来から「はちす」と呼ばれていたようで、花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのが通説で「はす」はその転訛と云われ漢字では蓮の字を当てています。また蓮の花と睡蓮を指して「蓮華」と云い、仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の知恵や慈悲の象徴とされ様々に意匠されている。如来像の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしています。仏教と共に伝来し古くから使われた名前であります。       

インドは蓮華が大好きな国です。涼しさの象徴であると同時に清浄さの象徴でもあるからです。仏教徒は蓮華を大切にします「お釈迦様は「蓮の生き方に人としての生き方を学びなさい」と云いました。蓮がどのような場所に咲いているのかをイメージしてみると気高い山の上でもなく、綺麗な花畑でもなく、泥の沼地であります。その場所が嫌だと云って逃げ出したりせずに、その沼地にしっかりと根を張って泥の中から養分を吸収し立派な美しい花を咲かせます。


蓮の花 パート2

未開敷蓮華(みかいふれんげ)                                      観音様が手に持っている一輪の花は「未開敷蓮華」と云われるもので今にも咲きそうな蓮の蕾を表現したもので、悟りを約束されながらも菩薩として働く観音様の姿を現しています。また修行を経て悟りを経た状態を開花した蓮華を意味するのが「開敷蓮華」であります。

蓮と睡蓮の違い                                   生育初期の段階では、どちらも水中から芽を出して「浮き葉」となりますが、睡蓮の葉がそのまま水に浮いているのに対して蓮は上に向かって高く伸びる「立ち葉」が特徴で、長い茎をのばした花の姿からは独特の気高さが感じられます。また、蓮の表面にツヤがなく円形状であるのに対して、睡蓮の葉にはエナメル上性の光沢があり、大きく切れ込みがはいっているという違いもあります。

蓮と睡蓮の色の違い                                仏教経典の「魔訶般若波羅蜜経」には「白蓮華(びゃくれんげ)・紅蓮華(ぐれんげ)・青蓮華(しょうれんげ)・黄蓮華(おうれんげ)」の4種類が記述されている。その中でも特に仏教で重要視されているのが煩悩に穢されることのない清浄な仏の心を表わす「白蓮華」と、仏の大悲から生じる救済の働きを意味する「紅蓮華」(ピンク)で、いずれもお釈迦様の故郷で咲いていた「蓮」です。

一蓮托生

「一蓮托生」は仏教で死後の世界観に由来する言葉であり、もともとは一つの同じ蓮の花の上に生まれ変わり身を寄せ合うと云う意味合いがあります。生前に功徳を積んだ者は死後に極楽浄土へ行き、一緒に神聖な蓮の台座の上に座れるという考え方を、一蓮托生と云った。一蓮托生は「結果の良しあしに関わらず行動を共にする」という思いを込めて用いられる言葉でとりわけ行動を共にする相手にその意思を伝える場面で用いられることが多い。


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天寿国繍帳

 聖徳太子1400年遠忌にあたる今年特別展が今、国立博物館の平成館でで開催されています。日本に仏教を広めるとともに、憲法十七条や冠位十二階などそれ以降の歴史の礎となる事業を推し進めた聖徳太子です。これを記念したゆかりの展覧会が開かれております。それぞれの全てが国宝級でありますが、中でも中宮寺からの天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は1,400年を経過している刺繍であります。

日本最古の刺繍遺品として知られていますが、もとは縦2ⅿ、横4mの2帳だったが現在は残片を寄せ集めて80㎝四方のみになっています。聖徳太子が亡くなった後、太子に逢いたいという妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)の願いによってつくられた帷(とばり・カーテン)の断片であり太子が往生したという天寿国の様子が緻密な刺繍によって表されております。制作された後は本堂に保管されたようですが鎌倉時代に発見されるまで法隆寺の蔵に眠っていたそうです。

その内容は百個の亀甲が刺繍され亀の甲には一個に四字ずつ、都合四百文字で刺繍造顕の由来が示されていました。幸いに銘文の全文が「上宮聖徳法王帝説」という本に書き留められており、3人の画家と監督した人名前まで書かれていました。

年齢を経るにつれ曼陀羅(絵)は破損していき現存するものは往時のほんの一部にすぎませんが、紫羅の上に白・赤・黄・青・緑・紫・樺色などのより糸をもって伏縫の刺繍が施され繍帳は鮮麗な色彩を残しております。七世紀中頃の染色技術、服装、仏教信仰などを知るうえで貴重な遺品と云えます。

天寿国とは阿弥陀如来の往生する西方極楽浄土のことであります。

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天王祭(八坂神社)


今朝(11日)は八坂神社の例大祭で車に乗った山車がふれ太鼓を伴って通り過ぎて行きました。これから子供たちを伴って我が八丁目地区内を練り歩く予定です。 毎年の行事でありますが昔は賑やかだったよと、立ち話をしながら振り返っている古老が今年もこれから雷が鳴って梅雨明けの知らせがあるでしょうと。

八坂神社は京都祇園社の素戔嗚尊が祭神でありますが、神格化され牛頭天王(ごづてんのう)は疫病をもたらす悪霊を鎮め退散させる力を持っていると云われています。牛頭天王に対する信仰は平安時代から続いており、山鉾や花笠を繰り出し支柱を練り歩いて鎮際するようになった。これが京都の祇園祭の起源でもあります。

備後国風土記では素戔嗚尊に擬していますが平安京八坂の祇園社近くに祀られていたのが御霊信仰と習合して疫病除けで知られるような祇園信仰となりました。当時も多分新型コロナのような疫病が大流行したので御霊会(霊を鎮める)が行われたと思います。そこに蘇民将来伝説が載せられたので重なって行きました。疫病を水辺に追放することから水神の性格も重なったことで水神祭とも云われるところもあります。

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素麺(そうめん)

 そうめんはもう茹でないで下さい! と名古屋の飯屋の旦那から言われた。 深めのフライパンにお湯を沸騰させ、そうめんを入れて10秒だけかき混ぜたら火をすぐに止めてフタをするだけ。数分後にはちゃんとそうめんになっています! 沸騰させ続けるよりもヌメリが少なく、つるんと美味しい仕上がりに何より、暑くないのが良いですよ。ビックリ水はいりませんよ!「嘘だと思ったら試してください」

子供の頃、母ちゃんが真夏のクソ暑い台所で吹きこぼれないように鍋の中をジッと見つめながら私に云ってたよ「吹きこぼれないように見ていなさい」・・・と。そうは言われても分かっていながらついつい吹きこぼれてしまいガス台のまわりがべちゃべちゃになって叱られたことありました。それでも汗を拭きなが氷水でさわし薬味や具材を入れた素麺の清涼感がたまりませんでした。

そうめんの由来 日本の発祥地は奈良時代に、天武天皇の孫である長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡に「索餅(さくべい)」の文字が記録されております。原型はもち米と小麦粉を細長く練り合わせたものを油状に揚げたもので中国唐時代の菓子として現在でも神饌としてお供えされております。そうめんの原型と考えられているそうです。

「流しそうめん」 竹製の樋を使ってそうめんを流し、途中で待ちかまえ箸で捕まえてめんつゆ等に付けて食べる。この流し素麺は、夏の風物詩とされている。昭和の30年代に宮崎県高千穂峡にあるお茶屋さんが店頭に「元祖流しそうめん」の看板を掲げていたと云うのでここが発祥の地として石碑を設置しているそうです。

また「そうめん流し」 回転式そうめん流し器という円卓テーブル上を円環する樋に水圧で水流を起こしそうめんを流しを箸ですくい食べる装置です。箸を用いてめんつゆ等を付けて食べるもので、これも5~6年遅れて鹿児島県の指宿の唐船峡の地で発祥したと云われています。非常にお手軽でコンパクトにできているため自宅での人気があるそうです。

江戸時代には七夕の時期(七姐節)に、そうめんを供え物とする習俗が広がってようで、細い長い麺を糸に見立て裁縫の上達を祈願したものでもありました。

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祇園祭

 京都の八坂神社の祭礼で日本三大祭りのひとつとされていま
山鉾巡行
すが、九世紀から続く夏の風物詩であります。過去に数回物見遊山で行った事がありましたが素晴らしいお祭りですね。かつては祇園御霊会といわれ日本全国で疫病が流行したときに、平安京の神泉苑で六十六ヵ国にちなみ六十六本の鉾を立て厄災の除去を祈願したことが始まりでした。

祇園祭は七月一日から一か月にわたり開催されますが中でも十四日から十六日にかけての「宵山」十七日の「山鉾巡行」「神輿渡御」がハイライトであります。その夕刻から、四条河原町から四条烏丸なで歩行者天国になり、各家々も屏風や家宝を美しく飾って展示し華やかさに色を添えます。浴衣に雪駄で歩くと気分も晴れやかになれます。

山鉾巡行が始まると交差点で行われる方向転換の「辻廻し」は巡行の見どころであります。各山鉾はそれぞれ10トンもあると云われ、水で濡らした竹の上を滑らせて転回させます。夕方からは三基の大神輿が八坂神社を出発しそれぞれ所定のコースを巡行し御旅所へと向かいます。昼間の優雅な巡行とはうって変わって千人を超す男たちに担がれた神輿は勇壮そのものです。

その後も花笠巡行や各種奉納が行われ後の祭りまで七月いっぱいお祭りが続きます。
(昨年に続き今年も残念ながら中止、或いは規模の大幅縮小となってしまいました。)
一刻も早くコロナと云う災厄から抜け出しいつもの
生活を取り戻したいものですね。

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茗荷と物忘れ

 ミョウガを食べると物忘れがひどくなるって本当なの?

庭の片隅に毎年恵みを届けてくれる氏神様から今年もミヨウガの献上がありました。大きく繁った葉の下に透き通った新芽が顔を出しています。頭の中はすぐ反応します、素麺や蕎麦の薬味・・新鮮な歯ごたえと香りを届けてくれるものが浮かびます。季節感があり田舎暮らしには欠かすことのできない一品です。

「ミョウガ」と呼ばれるものの内部には開花前の蕾が3~10個程度存在する。その為この部分を「花蕾」と呼ぶ場合もあります。一方、若芽を薄紅色に着色したものを「みょうがたけ」と呼び春の食材ですが、晩夏から初秋にかけて発生し秋を告げる風味として喜ばれるのが「花みょうが」です。独特の香りが好まれ麺類や冷奴の薬味など香辛料としての利用はご存知の通り。その他に天ぷらや酢の物、味噌汁の具など、田舎では山椒、ミツバと並んで屋敷林の木陰に丹精に育てて日常のチョットした薬味として確保しておくものでしたね。

俗説に「食べると物忘れがひどくなる」と云われておりますが、記憶への悪い影響は学術的にも根拠は全くないそうです。寧ろミョウガの香り成分には集中力を増す効果があると専門家は云うそうです。                                ここで落語の中にミョウガに関わるおもしろい噺をご紹介します。


「茗荷宿」 落語のあらすじ
東海道の神奈川宿に茗荷屋と云う代々繁盛していた料理屋があった。当代の亭主は道楽者で身上を潰してしまい仕方なく宿場のはずれに小さな宿屋を出したが、客あしらいも悪く家も汚くなり泊まるものもいなくなる有様でした。亭主夫婦は宿をたたんで江戸に出て一から出直そうと決めたある夜更けに、年配の商人風の旅の男が一晩泊めてくれと入ってくる。

男は商用の百両が入っていると云う荷物を預け、すぐにぐっすりと寝入ってしまう。百両に目がくらんだ亭主は台所から出刃包丁を取り出し客間に向かうが、女房に気ずかれ浅はかなことと思いとどまる。

だが女房も喉から手が出るほど百両が欲しい。そこで妙案が浮かんだ。宿の裏にごっそり生えているミョウガを刈って客の男に食べさせるのだ。茗荷は物忘れをさせると云う。客に茗荷ばかり食べさせ預けた荷物のことを忘れさせてしまおうという算段だ。

翌朝、ぐっすり寝て気分良く起きてきた男に、宿の女房は「今日は先祖の命日で、茗荷を食べる慣わしになっています。」と茗荷茶、茗荷の炊き込みご飯、茗荷の味噌汁、茗荷の酢の物など茗荷ずくしの膳に並べる。男は「美味い、美味い」と茗荷をたらふく、満腹、満足して預けた荷物も忘れて宿を立って行った。

宿屋の夫婦はまんまと計略が成功し百両が手に入ったと大喜びも束の間、男はすぐに戻って来て預けた荷物を持って行ってしまった。糠喜びでがっかりした夫婦は・・

 亭主 「何か忘れて行った物はないか」、暫くして女房が気ずく
 女房 「ああ、あるある」
 亭主 「何を・・」
 女房 「宿賃の払いを忘れて行っちゃったよ~・・・」

  令和3年 文月       八 大     





凌霄花(のうぜんかずら)

 古利根川沿いをいつものように歩くと鮮やかな色をした花を見かけます。電信柱の途中まで伸びた赤朱色は・・そうです巨人軍のマスコットカラーの凌霄花(のうぜんかずら)です。春ですからいろいろの花が見られますが特に目立っていますね。

ノウゼンカズラは夏から秋にかけて橙色の美しい花をつけ樹木や壁などの他の物に付着してつるを伸ばしていきますね。中国原産ですが平安時代に朝鮮を経由して日本に渡来したものと云われています。中国語でノセウが訛ってノウゼンとなって蔦が他の木に絡んで昇っていくためカズラの名が付いたと云われます。英語名では花の形がトランペットに似ていることから「トランペットフラワー」と呼ばれているそうです。

話は変わりますが若かりし昭和30年代の駆け出しの頃に、島倉千代子が歌っていた「ふるさとの花」がありましたがのうぜんかずらの歌詞が入っており何故か心に残っておりました。                         「 一人の兄が大学へ 立つ朝駅で見送れば さみしい妹の肩先を                                    ・  やさしく撫でた凌霄花 あゝ思い出の花 ふるさとの花 」                 

花言葉はラッパ上の花を咲かせる花姿から、英雄や勝者を祝福する際のファンファーレで吹くトランペットを連想する「名声」「名誉」「栄光」が名付けられています。

 令和3年 水無月        八 大




姫百合

 この季節、毎年我が庭に鮮やかな橙色にくっきりとした六花弁を咲かせるユリ科の花ですが、最近はシカの食害によって自生の姫百合は減少を続けているそうです。でもかろうじて園芸の愛好家によって人気があり栽培の対象となって都市部で多く見かけるようになっております。

「万葉集」では女流歌人である大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が姫百合をモチーフにした恋の歌を詠んでいます。彼女は万葉集を代表する歌人で女性の中では最も多くの歌が収録されています。代表的な歌「夏の野に繁みに咲ける姫百合の 知らえぬ恋は苦しきものぞ」があります、説明を入れるほどの事はありませんが・・・姫百合のように人知れず思う恋はつらい物です・・と。

戦時中に若くして亡くなった沖縄の「ひめゆり学徒隊」が有名ですがその関係は殆どないそうです。此のひめゆり学徒隊のもととなったのが、その当時「乙姫」「白百合」と云う二つ広報誌があったため「姫」と「百合」を取って「ひめゆり」になったのが実話だそうです。

ユリは 海外のキリスト教圏では聖なる花として知られていますが純潔の象徴として聖母マリアのシンボルとされており6月27日の誕生花とされており、花言葉は「誇り」「可憐な愛情」「強いから美しい」と云うもので、美しく気高く咲く姫百合にふさわしい言葉ですね。

 令和3年  水無月        八 大



水無月

 六月を和風の月名では「水無月」と呼ばれています。この時期こんなに雨が降るのにどうしてだろうと不思議にと思いませんか、調べてみました。水無月の「無」は、「の」にあたる連体助詞の「な」であるため、「水の月」という意味になります。

水無月
「水無月」は旧暦に使われていた和風の月名で、現在の新暦では6月を示します。和風月名は万葉集や日本書紀にも登場し、音の響き、漢字、意味に至るまでその月を象徴しているものが多く風情を感じさせてくれますね。「水無月」の由来は諸説あって、水が「無い」わけではなく「水の月」であるとか、田んぼに水を入れることを「水張月」とう説などがあります。この時期の雨は稲が実を結ぶために重要なものであるため、豊作を願う人々の思いがこの呼び名に表れている、ともいわれています。

また一方では暑さで水が涸れるところから「水無月」と呼ばれている説もあるそうです。これは旧暦の「水無月」が現在の六月下旬から八月上旬のころ梅雨明けして雨が降らなくなる日が照り付ける暑い時期の事を本来は示していたそうです。

六月には年中行事として、衣替え・田植え・入梅・夏至・夏越の祓と続きます。特に30日はご存知の夏越の祓がありますが全国の神社で神事が執り行われます。無病息災を祈る「茅の輪くぐり」の神事や、人の形に切った紙、人形(ひとがた)に名前を書き込んで息を吹きかけ、身の汚れを移し神社で祓い清めてもらう神事もおこなわれています。

「水無月の夏越の祓する人は 千歳の命延ぶと云うなり」
                    「拾遺和歌集」詠み人知らず
                        
 令和3年 水無月           八 大




漏刻の話

近江神宮 漏 刻
 6月10日は「時の記念日」です。天智天皇の10年(671年)4月25日、漏刻(ろうこく)と鐘鼓によって初めて時を知らせたという『日本書紀』の記事にもとづき、その日を太陽暦に換算して、定められたといわれます。現在ではカレンダーを見るといろいろな記念日が掲載されていますが、各種の記念日のなかでも時の記念日は最も初期に定められています。

第1回時の記念日は今からちょうど100年前大正9年(1920)のことでした。大正時代と云う時代背景からもう分かるように、衣食住をはじめ社会生活の近代化に進もうとする当時の勢いは凄かった。特に時間厳守ということで、時間を節約することによる効率性の向上が近代生活の基本として位置づけられたようです。生活改善運動として当時の渋沢栄一等が活躍した時代でした。私が子供の頃、銭湯の柱時計の隣に「時間守って楽しい集い」なんて古めかしい標語があったのを今でも覚えています。

3年程前、近江神宮を訪ねた時、話に聞いていた漏刻の展示物を見ることが出来ました。これが日本の時計の始まりという事は知られております。三段に重ねたマスから流れ出た水の糧で時間を知るなんて(古代のメソポタミアや中国では水時計として存在していたことは知られていた)昔の人達は大変な思いでこの精巧な水時計を作っていたことを知って、改めて時代の流れを噛み締めた次第でした。近江神宮では漏刻祭として現在も昭和16年6月から絶えることなく現在に引き継いでいるそうです。

 令和3年  水無月          八 大
 


 

納豆の食べ方

納豆は健康食 最近では健康にいいからと毎日のように納豆を食べていますが、その効果については分かりません。けれども考えて見ると何事もない事が健康の証ともいえますよね。納豆に含まれる2つの成分(ナットウキナーゼと食物繊維)が糖尿病の合併症である血栓による脳梗塞や心筋梗塞といった疾患の発症予防に効果的とされています。ナットウキナーゼは納豆のネバネバした部分に含まれる酵素のことで血栓を分解する作用があると云われていますので血栓溶解酵素と云われます。ナットウキナーゼは熱に弱い。

納豆は常温で食べる 美味しい食べ方 を最近勉強しました。納豆は冷蔵庫や冷凍保存ですが食べる前に常温に戻してから良くかき混ぜて醤油をいれ、また良くかき混ぜてを繰り返してから最後にからしを入れるのが一番美味しいのです。

納豆を混ぜる回数 「納豆は混ぜれば混ぜるほど美味しい」というのが常識となりかけていましたが、つい先日、一番美味しく食べるための混ぜる回数が発表されました。それが400回です。50回程度混ぜた物や200回程度混ぜたものに比べて400回混ぜたものは「旨味」が増すことがわかったのです。そこまでわかれば500回、1000回と混ぜていけばどんどん旨味が増していくと思われたのですが、なんと400回で頭打ちになってしまったそうです。つまり、納豆を最もおいしく食べるための混ぜる回数は400回だということが決定付けられたわけです。

北大路魯山人の教え 日本の芸術家(画家、陶芸家、書道家、料理家、美食家)の顔を持つ魯山人は「納豆の拵え方」とは「(1)納豆を器に取り出し、何も加えずよく練る (2)糸がたくさん出て、かき回すのが硬くなるまでよく練る (3)硬く練り上げたら、醤油を加えてさらに練る (4)最後に辛子や薬味を加えてさらに練る」というもの。上記に従い424回混ぜた場合、大豆の濃厚感は109%アップするという調査結果も出ています。

 令和3年 皐月         八 大

魔女の一撃

 久しぶりに「魔女の一撃」に出会いました。もうかれこれ15年ぐらい前に出会いましたが相変わらずその一撃は強烈でした。何のためらいもなく立ち上がろうとしてした瞬間倒れてうずくまり言葉も出ずその間10分ぐらいだと思いましたが、非常に長く感じました。そうです、これがギックリ腰と云うもので突然起こる腰痛の事で正確には急性腰痛症と云う厄介者です。

言葉の由来は魔女に腰を撃たれたように急激な痛みが走ることから、ドイツでは魔女の一撃と呼んでいるそうで、その由来はあまり定かではないが原因不明の腰痛を魔女のせいにしたと云う説。中世のヨーロッパでは罪のない人々を魔女と断罪し迫害を行っていた「魔女狩り」と云う悲しい歴史があるが魔女が害をなす存在とされており、まだ医学が十分に発達していなかった時代は、突然起こるギックリ腰を魔女の仕業にしていたのでしょう。

これについては日頃の予防策としては、年齢を自覚することの他運動不足を補うために急激な動きをいないことが大切であります。荷物などを持つ際に足元の悪いところで無理な姿勢で持たない事、極端に重いものはなるべく持たないようにすることです。また、睡眠不足でなおかつ過労ぎみの時などにも起きやすいのでゴルフをする人については、ドライバーの飛距離を争うようなプレーのしかたは止めることをお勧めしますと・・経験者は語ります。

「失楽園」や「愛の流刑地」等のベストセラー作家として知られる渡辺淳一氏は「愛ふたたび」という小説でギックリ腰の話が縁で主人公の男と女性弁護士との関係が発展し、仲が良くなりその先で二人は恋人になって行く話がありましたがその後はどうなりましたか・・・気になります。

 令和3年 皐月          八 大



端午の節句

 男の子の健やかな成長を祈願するもので「菖蒲の節句」とも云われていますがこの菖蒲は揉みつぶしてみると強烈な匂いを放つ菖蒲ですが災厄を祓う日でもあります。子供の頃に菖蒲湯に入って遊んで以来でしたが頭にタオルをのせて気分を味わってみると、その香りによって納得させられます。この風習は奈良時代から続いている歴史のあるものです。

五月五日が端午の節句になったのは古代中国戦国時代の詩人で政治家であった「屈原」の命日でした。楚国の王の側近であった屈原が陰謀に巻き込まれて川に身を投げて死んでしまいます。彼を慕う人たちが魚を太鼓で脅し、ちまきを投げて死体が食べられないように守ったそうです。そのため、ちまきが端午の節句に食されるようになったそうです。

日本に伝来した当初は厄払いの菖蒲の節句色合いが強かったのですが、鎌倉時代になり武家社会になるにつれ現在に見られる男の子の成長を願う日へと変化して行きました。江戸時代以降は男の節句とされ鯉のぼりを設置して鎧を付けた武者人形を飾り、成長と立身出世を願いましたのが現在も続いているのです。


 令和3年 皐月          八大   

浮野の里

加須の IC近くに「浮野(うきや)の里」という125ヘクタール程のミニ水郷があります。この辺りは氷河期が終わり気候の温暖化で海水面が上昇し関東平野の奥まで海水が侵入して出来た奥東京湾で波打ち際が「浮野」になったといわれています。この辺りでは珍しく「武蔵野の面影」を残す昔懐かしい農村風景がありその周辺には屋敷林やクヌギ並木や田掘りと云う水路があり田園の風景が残されており画になる風景が残されています。

ここには山の湿原でしか見られない植物が自生している珍しいところだそうです。トキソウ、ノウルシ、エゾミソハギやカキツバタなどが季節によって見られますが、そんな中でもノウルシはトウダイグサ(灯台草)科の多年草で、苞葉の中に黄色い花を複数付けその中に黄色い花がある様が灯火の皿に見立てた和名で、茎や葉を傷つけると白い乳液を出しその液は有毒です。環境省から準絶滅危惧種に指定されている貴重な植物で約300坪ほどの群生地が見られる処で、今の時期、薄い黄                     色の葉が絨毯のようで目を見張ります。

ノウルシの高さは30CMぐらいで、茎を切ると漆に似た白い液体が出ることから、ノウルシの名前が付いているそうで花が地味なのでその匂いで昆虫たちを誘って受粉に繋げているそうです。ウルシの名前から木の漆器を思い出しますが、草のノウルシはその匂いは何か消毒薬のように感じます。虫たちは誘われるように集まってきますが何でこの匂いが虫を呼び寄せるのか不思議でなりません。

一方、古利根川ではこの時期田植えの準備のため、満々と水を湛えて人道橋の縁では溢れそうです。その為可哀そうなことに所々に育っていたノウルシは水没してしまい残念なことに今は見えませんでした。田植えが終わって一旦水が落ちる頃また瑞々しい姿が見られる事でしょう。それまでは注目していますよ。

 令和3年 卯月        八 大







花水木

 今、駅前の街路樹にハナミズキがきれいの咲き始めています。北アメリカ原産の花でミズキの仲間、花をつけるのでこの名前が付きました。秋には赤い実を付けその後に紅葉が見られることはご存知の通りです。

1915年(大正4年)に東京市長だった尾崎行雄がアメリカ、ワシントン市へ我が国のさくら(染井吉野)を送った返礼としてアメリカ合衆国から贈られたものです。別名を「アメリカ山法師」と云われていますが、アメリカから渡来した時に日本の山法師に似ていたのでその名前が付いたと云われています。

それから後、日比谷公園や小石川植物園などに植えられましたが、あの戦争の際にほとんどが伐採されてしまいました。平成24年にワシントンの櫻寄贈100周年記念としてハナミズキが送られたことで今日では日本各地に植えられ日本の春を飾る花としてどこでも見られるようになっております。一青窈さんのシングル盤でも一時流れておりましたね。

こんな話もありますね。 イエス・キリストが架かった十字架にはハナミズキの木が使われており、そのため以前は大きかったこの木は小さくなり花は4弁で十字架の似ていて花弁にくぎを刺された傷跡があると云う伝説があると云われていました
。この伝説の出どころはアメリカ合衆国からと推察されますが、20世紀より前にはない伝説で勿論キリスト教の聖書にもはありません。

 令和3年  卯月        八 大



山吹の話

晩春に鮮やかな黄色の花を毎年届けてくれる山吹ですが、古くから親しまれた花で家庭でも栽培されています。最近では一重の他に八重の花を見る機会が多くなっていますね。多分愛好家が収集育成しているのでしょうね。山吹はバラ科の落葉低木で北海道から九州まで広く分布しており国外では中国でも多く育っているそうです。山の中に生えしなやかな枝が風に揺られる様子から「万葉集」では「山振(やまぶり)」と呼ばれ、転じて山吹になったとも
云われています。

山吹と云うとすぐに太田道灌の逸話がありますがその解釈に違い?もあるようです。普通は八重咲き山吹には実がつかないことを述べた歌とされるが、「七重八重」を山吹が積み重なるように咲く様子と解し、山吹の果実が堅くて食えないので、「山ほど花が咲くのに、食える実がつかないのは情けない」とする解釈もあるらしい。

山吹には実がつかないと思われがちであるが、実際には一重の基本種には立派に実が付いております。八重ヤマブキの場合は雌しべが退化して花弁になっているため、実を結ぶことがないそうです。日本で昔から栽培されてきた山吹の多くが実をつけない八重咲き種であったため、ヤマブキは実をつけないと言われるようになったようです。

また、山吹色と云えばオレンジ色黄色の中間色のことでありますが、山吹の花のような鮮やかな赤みを帯びた黄色のことです。別名「黄金色」とも呼ばれ江戸時代での隠語では「賄賂の小判」が「山吹」と呼ばれました。色名は黄色の花を咲かせる植物の山吹に由来し、平安時代から用いられて来ました。

山の中に生えしなやかな枝が風に揺られる様子から万葉集では「山振」と呼ばれ、転じて「山吹」になったと云われています。晩春に花が咲くことから春の季語となっています。昨年に珍しいと云われる「白いヤマブキ」を見せられましたが姿かたちも良く似ていました。けれどもこれは山吹とは関係のない品種とのことでしたよ。


 令和3年 卯月            八 大










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花祭りの甘茶

戦後の荒廃した世の中で育った私達の楽しみは季節ごとのお祭りでした。中でも当時の灌仏会は先祖の供養と共にお寺参りに繋がるためか思いが心に残っている。そんなことを云うと歳が判ってしまいますが 田舎のお寺での楽しみは花祭りだった。お釈迦様の誕生を祝うために花御堂を設え、たらい型の灌仏桶を甘茶で満たしその中央に誕生仏を配置します。小さな柄杓で何度も甘茶をかけてから、チョットだけ甘味のする薬草茶を何杯も戴いた記憶がありました。上等なお菓子
のない時代甘茶は珍しい飲み物で有難がって飲んでいました。

何で甘茶を掛けるのか不思議に思いました。 お釈迦様が生まれたネパール国のルンビ二という地方はヒマラヤの麓にあり盆地であります。花の咲き乱れている誕生の時、天から九頭の龍が現れて甘露の雨を注いだという言い伝えに基づいています。その雨がお釈迦様(ゴータマ・シッタルーダ)を清め、悟りの道へと導いたと信じられていることから、無病息災につながる甘茶を掛けるようになったと云われています。

甘茶はヤマアジサイの変種である「小甘茶」から作られ苦い飲み物ですが、発酵させると砂糖の100倍以上の甘さになり昔は甘味料として非常に重宝されたと云います。中国では「上に立つ者が良い政治を行って平和な世が訪れると甘い露が降る」との言い伝えや、インドの伝説には「茶は神様の飲み物で飲むと不老不死になれる」と云われており、長い時間をかけてお釈迦様への信仰に広がって行ったと云われています。

花祭りでの作法                                   1)山門の前で一礼しお寺に入る。2)手水舎で手と口を清める。3)参拝してロウソクと線香を上げる。4)お賽銭を上げて一礼する。5)合掌して祈願をしもう一度一礼する。   その時に祖父からお釈迦様の前で柏手(かしわで)を打ってはダメとを教えられました。                      お釈迦様の誕生日は紀元前463年の4月8日という説が一般的に言われております。           

 令和3年 卯月         八 大

       

                                    

清明の頃

 「清明」とは清らかなこと。二十四節気の一つで春分から15日目、今年は太陽暦4月4日にあたり、万物の精神の気がみなぎる季節とあり「清浄明潔」という言葉を訳した季語です。様々な花が咲き、蝶が舞い、空は青く澄み渡り爽やかな風が吹くころでお花見シーズンの到来の季節ですが、今年はコロナ禍によって新しい言葉、蔓延防止でまたまた自粛を余儀なくされるようです。

沖縄では4月に入るとシーミーと呼ばれる「清明祭」があり、先祖の墓にお重の料理を供えて宴を開き供養と親族の親睦を深める祭りがあります。その地域にもよりますが、天・地・海を象徴する、鶏肉・豚肉・蒲鉾などを重箱に詰め親類の皆が祝います。また沖縄本島南部の地では一族全員が同じ墓に入る伝統があるので必然的に大きなお墓になっているそうです。この行事は18世紀ごろに中国から伝わって来たそうで農作業の始まるこの季節                に先祖の霊力を借りる為に広まったとも云われています。

花言葉で清明と云う意味を持っている花があります、それはキンポウゲ科デルムニュウム属の「ヒエンソウ」があります。この花は蕾がイルカに似ていることからギリシャ語でイルカのデルフィと結びつているそうです。                   花をよく見ると日本語の飛燕草(燕の飛ぶ姿)の方が分かりやすいですね。結構あちこち空き地でも見かけますが名前を聞いて、ウンチクを聞きますが・・・ああそうだったのかと納得です。

十三参り この由来は諸説ありますが、13歳は半元服であり大人の仲間入りをする年齢だった説、厄年を迎える初めての年が13歳であり厄払いの意味があった説、13歳のなる子供たちが虚空蔵菩薩を参           拝し、知恵や福徳を授かる説。「お身代わり」として好きな漢字を          (例えばと)書いて自身の身代わりとして捧げることをしていた           そうです。昔々そんな時代もありましたね・・・。

 令和3年 卯月        八 大